第11章 越えてはいけない扉②


翌朝――。

耳元で鳴り続ける電子音に、愛子はゆっくりと目を覚ました。


今日は休みをもらい、アラームを外していたから愛子のスマホではない。


(……ん?)


目を凝らして音の方を見ると、それは湊のスマホだった。


7時。

彼のスケジュールに沿って、いつも通りアラームが鳴っていた。


愛子は体を起こし、スマホを手に取ってアラームを止める。静まり返った部屋の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。


そのとき、鼻をつく不快な臭いに気づいた。

タオルケットをそっとめくると、湊の下半身が――糞尿にまみれていた。


けれど、愛子の目に驚きの色は浮かばなかった。感情の波が届く前に、どこかがすでに麻痺していた。


「……もぉ」


小さくつぶやき、わずかに肩を落とす。その声色は、驚愕でも嫌悪でもない。ただの『作業前の準備運動』のような、『母親』のような静かな響きだった。


静かに立ち上がると、愛子はタオルとバケツを準備する。手順はもう、何も考えなくても自然に体が動く。汚れをふき取り、衣類を脱がせ、湯を沸かし、洗剤を溶かす。


それはまるで、看護業務の一部のような動きだった。


(……一回手洗いしなきゃだめか。)


呟く声にさえ、もはや感情はこもっていなかった。


一通りの片付けを終えると、愛子は部屋着を脱ぎ、さっと着替えをすませた。


「湊、買い物行ってくるね。何か欲しいものはある?」


もちろん、返事はない。それでも、ひと呼吸の間、湊の顔を見つめる。少し長く見つめすぎたと気づき、愛子は目をそらす。踵を返し、静かに玄関を閉めた。


*   *   *   *


2時間ほどして、愛子は戻ってきた。

「……ただいまぁ」


片方の買い物袋をキッチンに置き、もう一つの買い物袋を持ってまっすぐベッドへと向かう。


その目に映る湊は、先ほどと何ひとつ変わらない。

ただ、そこに“いてくれる”というだけで、少し心が落ち着く気がした。


愛子は湊の肩にそっと手を添え、少し軽くなった身体を横にずらす。


マットレスにはまだ薄く染み残った汚れと臭い――完全には落ちきらなかった、痕跡が残っていた。


買ってきた消臭スプレーを、ためらいなく吹きかける。刺激の少ないペパーミントの香りが、わずかに部屋に漂った。


「ちょっとだけ冷たかったら、ごめんね」


そう言いながら、大量に買って来た大きめのタオルを何枚か重ねて汚れを押さえるように拭き取っていく。


拭いて、たたんで、また拭く。淡々と作業を進めていく。


次に、ペット用の吸水シートを何枚か取り出し、マットレスの上に丁寧に敷いていく。

その上から、新しいシーツをかけ直し、しっかりと端を折り込んだ。


「……新しいマットレス、買わなきゃね」


ぽつりと、つぶやいた。まるで一人暮らしの家で独り言を言うような、どこまでも自然な声だった。湊をまた真ん中より少し左になおし、パンツとスウェットを履かせる。


汚物に汚れたタオルをごみ袋に詰め終えた愛子は、湊のそばから少し離れ、ソファに腰を下ろした。


手元には買ってきたペットボトルの水。傍らには無言の湊。


(ねぇ、湊……どうすればいいの……)


外に出た時間が、ほんのわずかに彼女の思考を現実に戻していた。今この状況がどれだけ異常なのか、少しずつだが理解できる気がしていた。


――そのとき。


 ピンポーン

玄関のチャイムが鳴った。ビクリと肩が跳ねる。


(……誰?)


とっさに息をひそめ、音を立てぬように立ち上がる。足音を殺してインターホンのモニターを覗き込むと、無表情なスーツ姿の男が映っていた。


「失礼します、ご在宅でしたら……」

数回、礼儀正しくだが強めにチャイムを鳴らし、反応がないとわかると、ポストに封筒を差し込んで立ち去った。ドア越しに、足音が遠ざかる。


愛子はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてポストを開け、届いた封筒を手に取った。


いくつかの水道・光熱関係の通知と、どこかで見たことのあるようなロゴの封筒がある。


そのうちのひとつ、不動産管理会社の名が入ったものを開封する。


――『家賃支払いのお願い』

――『7月分未納につき、至急ご対応をお願いいたします』


次に電力会社からの督促状。

未払いはまだ1ヶ月分。けれど次の支払いがなければ、すぐに停電になるだろう。


最後に、クレジットカード会社からの封筒。記載された「未納残高」の数字は、愛子の手が止まるには十分だった。


――37万2245円……。


請求明細の使用項目をざっと目で追う。家電、ネット関連機器、通販、ゲーム課金。


湊……。


愛子は封筒を持ったまま、ゆっくりと湊のほうへ視線を向けた。


ゴーグルをつけたまま、静かに、ただそこにいる男――


まるで、世界との接点をすべて断ち切ってしまった人形のように。


封筒を手にしたまま、愛子はリモコンを取り、テレビをつけた。


心のざわつきを、少しでも紛らわせたかった。音量は小さめ。流れているのは昼のワイドショーだったが、内容はまるで耳に入ってこなかった。


画面の明滅をぼんやりと見つめながら、愛子は深く息をついた。

(……とにかく、電気代だけは)


考えるより先に、そう決めていた。電気が止まれば、ゴーグルも使えなくなるはず――


けれど、それが湊にとってどういう意味を持つのか、正直なところ愛子にはわからなかった。


(……戻ってこられるの?)

(……戻ってこれなくなるの?)


知識のない自分には、どうしたらいいのかなんてわからない。でも、何もせず電源が落ちるのを見ていることだけは、どうしてもできなかった。


(湊が今いる場所と、ここが機械でつながってるなら――止めちゃいけない)


それは、ただの直感だった。でも、愛子の中では、それだけで行動する理由には十分だった。


クレジットの明細を改めて見直す。何にいくら使われているか、詳しくはわからない。

ただ、金額だけが膨らんでいく。


(……カードが止まったら、あのゴーグルは使えなくなるの?)


誰かに尋ねるわけにもいかない。愛子は、ただ自分の中で考えるしかなかった。


(でも……支払いが滞って、何かが止められたら……それで湊が、あちらから戻れなくなったら……)


それが“正しい心配”かどうかなんて、もう関係なかった。怖かった。わからないことが、ただ怖かった。


家賃の支払い用紙にも目を落とす。愛子の口座残高と、手持ちの現金――

全部足しても、全部は無理だった。


(電気とカード。とにかく、この二つを)


それだけは、どうしても止められなかった。


愛子は静かに立ち上がり、バッグの中に財布と請求書を滑り込ませた。


ソファの背にかけていたカーディガンを羽織りながら、ベッドに目をやる。


「……ちょっと行ってくるからね、湊」


もちろん返事はない。それでも、声に出すことで少しだけ胸が落ち着く気がした。


玄関の鍵を回す音が、妙に重たく響いた。


愛子が出ていった後も、部屋にはテレビの音だけが残されていた。


「続いては特集です。

今、急速に普及が進む“次世代型VR機器”――その影響とは?」

軽快なジングルとともに、スタジオの画面が切り替わる。


「今年に入ってから、最新型VRゴーグルの使用中に起きた『異変』が、各地で報告されています。中には、おとなしかったペットが飼い主に突然噛みつく、あるいは同居人が錯乱状態になる――といった、深刻なケースも」


VTRでは、散らかった部屋、牙を剥くペット、呆然とした表情の“家族”らしき人物が映し出される。


「いずれのケースも共通しているのは――

『VRゴーグルを、ほぼ毎日のように長時間使用していた』という点です。


現時点では、メーカーが定める、1日8時間以内の使用では使用者本人には重大な健康被害が確認された例はありませんが、専門家の間では、『使用者の周囲にいる人間』への影響が懸念されています。」


スタジオに戻り、司会者が少し口を引き締めながら言葉を継ぐ。

「特に、使用者のすぐそばに長時間いた人に、幻覚や情緒不安、拒食症状、現実感の喪失などが見られるケースがあるとの報告も出ているそうですねぇ」


「そうなんですよ」

隣のコメンテーターが、手元の資料をめくりながら言葉を挟んだ。


「実は私もこの「VR」持ってまして、うちにも届いたんですけど、メーカーから『同居者様向』の書面で注意喚起がありました。


使用中のゴーグルには、できるだけ近づかないようにって、赤文字で太字で書かれていて……。


正直、ちょっとゾッとしましたよ」


「それって、近くにいるだけで影響あるってことですか?」


「ええ、繰り返しになりますが、メーカーは、1日8時間以内の使用であれば、使用者本人には健康への影響は確認されていない。という見解を示しているんですが、周囲にいる人への影響は、まだ安全とは断言できないというのが現状です。実際に、子どもが急に情緒不安定になったり、ペットが異常な興奮状態になるなどの例も報告されていますし、

大人でも“頭痛、吐き気、無気力、そして現実感の喪失”を訴えるケースがあると」


「つまり――近くにいる『だけ』で、不調を引き起こす可能性があるってことですよね?」


「そうです。『まだ解明されていない影響』ではありますが、メーカー側も『安全とは断言できない以上、同居者には離れて過ごすことを強く推奨する』と明記しています」


ワイドショー特有のざわついたスタジオの空気が流れる中、画面は無人のリビングを映し出す。


テレビの光が淡く部屋を照らす中――


ベッドでは、湊がゴーグルをつけたまま微動だにせず、

ただ、ゆるやかな呼吸音だけが空間に染みついていた。


その足元、壁際には黒いゴミ袋がひとつ。

中には、汚物を拭き取ったタオルや染みのついたシーツ。


そのすき間には、Neuronis Systems(ニューロ・システムズ)株式会社から届いた注意喚起の封筒が、


不要なチラシや光熱費の明細に紛れて、くしゃりと折られたまま捨てられていた。


宛名の隅には、こう記されていた――

「SynDive-VR03(シン・ダイブ03)をご使用のご家族・同居者の皆様へ」


あるいはこの手紙に気づいていれば……




ATMの画面に表示された残高は、63万4,568円。

湊のカードの支払いが36万5,392円、未納の電気料金は7,853円。


(……払える。けど、もうこれ以上は――)


口の中がカラカラに乾いていく。この先の生活費や自分の家賃、奨学金の引き落とし、光熱費……

すべてを勘定した結果、湊の家賃はとりあえず後回しにするしかないと判断した。


(今月の給料が入れば……それでなんとか……、埋められる)


覚悟を決めて、引き出し額を45万円に設定する。紙幣が出てくる音が、妙に冷たく響いた。


その足で、近くのコンビニへ向かった。レジの奥で、若い男性店員が無愛想に支払い用紙のバーコードを読み取る。すぐに液晶画面に金額が浮かび上がる。


【お支払い合計:372,245円】


「内容を確認して、【OK】ボタンを押してください」


ぶっきらぼうな声。こちらの顔すら見ない。


(……これ、ほんとに、全部?)


思わず確認ボタンを押す指が、わずかに震える。愛子はゆっくり深呼吸し、押し込むようにそボタンをタップした。


バン、バン、バン……


レジ横のスタンプから、無造作に押された「領収済」の朱印。だがインクが薄く、文字はほとんど読めなかった。


(大丈夫……もう払ったんだから、大丈夫……)


財布にレシートをしまいながら、愛子は自分にそう言い聞かせ、レジを後にした。


出口へ向かう途中、レジ横の冷蔵ショーケースにふと目が留まる。


(……あ)


そこに並んでいたのは、学生時代によく飲んでいたカフェオレ。


湊が初めて泊まりに来た夜、買ってきてくれて――

照れくさそうに、『はい、飲み物。甘いやつ買ってきた』 と言ったあの声が、ふいに脳裏をよぎる。


(最近は、ほとんど買ってなかったな……)


たった数百円の甘さ。けれど今の愛子にとっては、『贅沢』だった。手を伸ばしかけて、すぐに引っ込める。


(ダメ、無駄遣いはできない。これからどうなるかわからない。)


ほんのわずか心が揺らいだ自分に、静かに言い聞かせながら、愛子は冷たい空気の中へと足を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る