第2章 ふたりの会話②
居酒屋の深夜。営業が終わり、湊と愛子はいつものように黙って片付けをしていた。
「……大丈夫?」
静かに、愛子が声をかける。湊は「うん」とだけ返し、しばらく無言でテーブルを拭き続けた。
バイト終わりの帰り道、ふたりは駅前のベンチに座る。無駄にお洒落な街灯の明かりだけが、ぼんやりとふたりを照らしていた。
「……変な感じだった」
湊がぽつりと言う。
「なにが?」
「葬式。みんな泣いてて、悲しそうでさ。でも俺は……泣けなかったんだよね」
愛子は黙って耳を傾ける。
「小さい頃から、あんまり母親の記憶?てか、思い出?みたいなのが無いんだ。いや、居るには居たんだけど。手料理?の記憶もあんまり無いし、家族で旅行とかの記憶もない。なんかずっと、俺のこと邪魔そうにしてた気がする」
湊は、缶コーヒーを指でゆっくり回しながら続ける。
「たぶん……俺、母親に、愛されてなかったんじゃないかって。なんか……そう思ったら、ずっと胸の奥が冷たくてさ。悲しいっていうか、寒い。誰かに忘れられてたような感じで、俺って居るだけの存在なのかなって……」
愛子はしばらく黙っていた。やがて、そっと自分の缶を湊の缶にコトンと当てる。
「……湊くんは、ちゃんとここに居るよ」
その一言に、湊はふと顔を上げて愛子を見た。愛子は優しく微笑んでいた。
「……なんだよそれ」
「なんでもない。ただ、それだけ」
ふたりの間に沈黙が戻る。でも、その静けさは、少しだけ暖かかった。
湊は、いつものように店に立っていた。配膳、洗いもの、調理場。仕事は身体に染みついていて、いい意味で何も考えずこなせる。
そこに時折、視界の端に映る愛子の姿に意識が向くことが増えていた。
愛子もまた、湊の様子を遠くから見ていた。湊が大人びて、けれどどこか少し柔らかくなったことに気づいていた。
ふたりは、以前と同じようにバイトをし、大学に通い、友達と冗談を言い合い、たまにラーメンを食べて帰った。
だけど、ほんの少しだけ変わったことがあった。
たとえば、湊は愛子が疲れているときに「大丈夫?」と声をかけるようになった。
たとえば、愛子は湊が黙っていても、隣に座って何も言わずにいてくれた。
誰かの優しさが、心の中に残るということを、湊は初めて知り始めていた。
そして、誰かのことをふとした拍子に思い出すことが増えたのは、愛子も同じだった。
まだ、それが【好き】という気持ちなのかはわからなかった。
でも――
「最近、あの子と仲良いよな」
大学の友達から、そんなふうに言われたとき、湊は「そうかな?“普通”じゃない?」と笑ってごまかした。
愛子もまた、別の友達から「あの人、どんな人?ちょっと暗くない?」と聞かれ、少しだけ戸惑いながら「まぁ、でも……“普通”の人だよ」と答えた。
その“普通”が、どこか特別に思えることに、ふたりはまだ気づかないふりをしていた。
湊は、愛子の言葉に安心する自分に気づいていた。それは特別な言葉じゃなくてもいい。
「おつかれ」とか、「湊くん、これお願い」だとか。
名前を呼ばれて、声をかけられるだけで、心のどこかがふっと軽くなる。
――ただ、あれは、いつだったか。大学の講義でグループワークをしていたとき、ふと愛子の笑い声が別の教室から聞こえてきた。窓越しに見えた彼女は、楽しそうに友達と話していて、湊の知らない顔をしていた。その瞬間、胸の奥にわずかに重さが残った。自分の知らない彼女の表情に、なぜか小さな嫉妬が滲んだ。
――なんで俺、そんなふうに思ったんだろう。
その夜、ひとりでラーメン屋に立ち寄って、何も感じないままラーメンを頼んだ。食べながら、ぼんやりと店のテレビを見つめていたけれど、頭の中にはずっと、愛子の笑い声が残っていた。
一方、愛子は、湊が時折見せる無防備な表情に気づいていた。
普段は無口で、真面目で、何を考えているのかわからない人。
でも、何かに夢中になっているとき――
生ビールを絶妙な配分で注ごうと真剣な表情の時、重くて熱い中華鍋を必死に振っているとき、坂元にちょっかいをかけられてふと笑うとき。そのどれもが、少しずつ彼女の目に焼きついていた。
愛子は、自分が湊のことを思い出す瞬間が、少しずつ増えていることに気づきはじめていた。
バイトの帰り道、星を探しながら歩いている時ふと思う。
――湊くん、今日は疲れてたな。ちゃんと眠れてるかな?
そうやって思い出しては、自分でも驚くほど心配している。まだ確かな言葉にはできなかった。
だけど、その想いはゆっくりと、でも確かに、“普通”のふたりの心に根を張っていった。
――きっと、もうすぐ何かが変わる。
そんな予感だけが、胸の奥で静かに膨らんでいた。
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