二 背信の夜

 目覚めたとき、まだ夢のなかを揺蕩っているのかと思った。

 闇のなかで誰かが蠢いている。ぼんやりとそれを眺めていると、朧げな影が焦点を結び、暗がりのなかでこがね色のひかりが星影のようにまたたくのが見えた。


「み……かげ?」

「……起こしてしまいました? すみません」


 その声の鮮明さに、どうやらこれが夢ではないことを知る。深景は、晞子の枕元に座って片膝を立てていた。


「まさか、私寝坊した? もう朝?」

「いえ、まだ真夜中ですよ」


 ならなぜ、晞子の寝室に深景がいるのだろう。

 彼はその手のたちの悪い冗談を毎日のように口にしているが、夜這いをしにきたことはない。しかも明日は白鷺院との大一番だ。


「ふざけているなら――」


 起き上がって深景を追い払おうとした矢先、くん、と両手首をなにかに引かれた。寝ぼけていたせいで気づかなかったが、なぜか両腕を布団から出して万歳しているような格好になっている。いや、それだけではない。晞子の手首にはなにかやわらかい帯状のものが巻かれ、それが床の間の柱に括りつけられていた。


「は――?」


 それきり、言葉が続かない。もうすっかり意識は覚醒しているのに、思考が時を止めたように停止していた。

 いや――それはたぶん嘘だ。だって心が叫んでいる。

 なにも考えたくない。

 この状況から導かれるごく簡単な答えを理解するのを、全身が拒んでいた。


「ま、起きてしまったものは仕方ないですね」


 深景はいつもよりもいくらか冷めた、投げやりな調子で呟く。

 彼がおもむろにマッチを擦ると、石油ランプに細く火が灯った。頼りなげな光が、晞子の手元を照らし出す。それで自分の手を戒めているのが、深景が屋敷でよく普段着に使っている兵児帯へこおびだと分かった。

 深景は手のひらでなにかを弄んでいる。鈍くしろがねにかがやくそれが小刀であると気づいて、晞子はひっという悲鳴を噛み殺した。


「――ねえ、晞子さま。どうして前科者の悪党なんか信用したんです?」


 ひどくつめたい視線に見下ろされる。

 自分のなかで、心が音を立てて砕け散るのが分かった。

 晞子が唇をふるわせてなにも答えられずにいるのを小馬鹿にしたように嗤って、深景は立ち上がる。石油ランプ片手に軽やかな足取りで桐書棚に近づいて、その上に置かれたスイートピーの鉢植えを照らし出した。

 祝言を挙げて間もない頃に贈られたそれは、毎日欠かさず水やりをして陽に当てていたおかげで、まだ枯れずにきれいに咲きほこっている。

 深景はその紅い花弁を撫ぜて、くすりと笑声をこぼす。


「随分と、大切にしてくださっていたようで」


 心のうちを見透かすような声音に、かっと怒りと羞恥が込み上げた。


(誰か――)


 帝の返事を待っているにちがいない朱鷺はまだ戻ってきていないが、常葉は離れにいる。声を上げようとすれば、ひと息に深景が枕元に舞い戻った。


「常葉さんが駆けつけてくるのと、あなたの喉が裂けるの、どちらが早いでしょう」


 深景は晞子の喉首に刃を押し当てて、知らない男のように――いや、はじめて出逢った頃みたいに毒のしたたるような笑みを浮かべる。


「……はじめから、私を殺してこの家を乗っ取るのが目的だったの?」

「家なんて興味ありませんよ。そんなもの、人を不自由にするだけじゃないですか?」


 深景は分かるような分からないようなことを言って、小刀の代わりに手を伸ばしてくる。

 首元をまさぐられ、なにかを引き出される。紐のついた鍵だ。鍵――言うまでもない。紅匣の保管場所の鍵である。

 深景はぴんと張った紐を手際よく小刀で断ち、鍵を手中に収めた。


「待っ――」

「少し、静かにしていてもらえますか」


 深景は手巾を丸めて晞子の口に押し込むと、立ち上がって室内の物色をはじめる。

 なんとかして阻止したいのに、手を縛られているせいで起き上がることすらままならない。芋虫のようにみっともなく地を這っているうちに、深景は箪笥のなかの紅匣の隠し場所を探り当てたようだった。無情にも、かちゃり、と鍵のひらく音がする。

 深景はうやうやしく血色にかがやく匣を持ち上げる。

 晞子は青ざめた。やはり、深景の目的は――。


「ひとつ聞きたいことがあるので、あと少しだけお喋りがしたいんですが、あなたはこれを俺に明け渡さないために捨て身で大声を出したりしそうなので、忠告します」


 深景は紅匣を手に、横たわる晞子のほうに一歩ずつ近づいてくる。


「今や俺の手には紅匣がある。この意味、分かりますよね?」


 つまり晞子が叫んだり、妙な動きをすれば、離れにいる常葉やはるを手に掛けることもありうると言いたいのだろう。酷薄な顔を睨み上げつつ、晞子は頷く。

 深景は満足げに相好を崩すと、ふたたび晞子の枕元に腰を下ろした。口のなかに詰められていた手巾が引き出され、背中を丸めて激しく咳き込む。生理的な涙がこぼれ落ちて、荒い息が唇から漏れた。だがそれも、次第に落ちついてくる。


「……聞きたいこと?」

「ええ、桜紋を消す方法ってあるんですか? 紅匣の力を使いきって散らす以外で」

「つまり、この呪いを無効にする方法ってこと?」

「ええ」


 なんだそんなことか、と思った。


「離縁すれば、あなたのものは消えるわ。今ここで、儀式でもする? それで自由になったあなたは、どこぞに紅匣を持ち逃げでもする算段なのかしら」

「……俺のではなく」


 深景は、晞子の鎖骨に指を滑らせた。先ほど暴れてはだけたのか、残り四枚になった桜紋が露わになっている。晞子は身をよじって、深景の手から逃れた。


「そんな方法はないわ。鴇坂の血族は、この家に生まれ、この血が流れているかぎり、死ぬまで桜紋が消えることはない」

「――そうですか」


 深景は淡々と答える。

 晞子は眉根を寄せた。なぜ彼がそんなことを言い出したのかよく分からない。紅匣を盗み出すにしても、晞子が使えるままなのが不都合だったからだろうか。だが、それなら晞子の命を奪えばいい話だ。しかし、深景は紅匣も小刀も向けてくる気配がない。


「まあとにかく」深景は憐憫を込めて嗤った。「紅匣を失ったあなたには、もはやなんの力もありません。これに懲りたら余計なことに首を突っ込まず、大人しくしていることですね」


 深景はふたたび手巾を取り上げて、晞子の口内に突っ込もうとする。いよいよ屋敷を出て行くつもりだろう。


「――深景」


 咄嗟にその名を呼べば、深景の指先がぴくりと跳ねる。

 金のひかりが褪せて、夜の気配が濃くなった眸と目が合う。

 晞子は口をひらいたが、言葉の端っこを掴む前にそれは霧散して、なにを言いかけたのか分からなくなる。


 なんだか前にもこんなことがあった。あれはそう、姉が死んだときだ。

 そう思えば思うほど、袋小路に迷い込んだように自分のもののはずの思考がすり抜けていって。


「……絶対に、ゆるさない」


 なんとか探り当てた言葉は、本当に言いたかった言葉とは似ても似つかない気がする。

 だけど頭のなかはぐちゃぐちゃで、もうこれ以上彼を視界に映しつづけることもできなくて。


「はは」渇いた笑いはすぐにとけて消える。「あなたの記憶に残ることができるのなら、本望ですよ」


 悪党らしく、悪辣に鮮やかに笑んで、深景の姿は夜の闇に消えた。

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