三 兄と妹(二)

 しかし今は深景のことよりも、滋とはるのことだ。

 晞子は渾身の力を込めて、最低最悪な夫の腕を引いた。今度は抵抗することなく、深景は晞子の意のままになる。


「待って。あなたもそこの妹さんも、警察に突き出す気はないから安心して。私はこれを返してもらいさえすれば、十分だから」

「え――?」


 滋が目を見ひらく。しかしすぐに半信半疑といった様子で軽く身を引いて、はるを庇うように立ちはだかった。それだけで、彼らが育ってきた環境の過酷さが分かろうというものだ。

 掛け値なしの親切を信用などできないのだろう。その気持ちは、晞子にもいくらか理解できる。


「じゃあ、こうしましょう。私は花ノ怪を探して、今日ここまで来たの。あなたたち、もしなにか情報をもっていたら教えてくれない?」


 滋とはるが目を見合わせる。

 はるが警戒した様子で、慎重に晞子に視線を合わせた。


「あたし、見たよ。花の痣のある人のことでしょ。首に痣があった」


 首に痣。

 先ほど日雇い労働者から聞いた目撃証言と一致する。あくまでこのふたりを自由にするための方便だったので、べつにでたらめな証言であってもよかったのだが、ひょっとするとこれは思わぬ収獲かもしれない。


「そうよ。それって昨日?」

「うん。夕方になる少し前。でっかい男で、なにかぶつぶつ呟いてた。訛ってたから、たぶんこの辺の人じゃないと思う。そういえば、足に紋々もんもんがあったよ」

「紋々?」


 耳慣れない言葉に、晞子は眉根を寄せる。


倶利伽羅くりから紋々。よくやくざ者が身体に彫っている刺青のことですよ」

 深景がそつなく噛み砕いて説明してくれる。

「花ノ怪はやくざ者だったってこと?」

「さあ、断定はしかねます」


 深景は肩を竦めたが、とにかく一歩前進だ。


「助かったわ。これでちゃらにしてあげる。行っていいわ」


 晞子の言葉に、今度こそ安堵した様子で滋がほっと息をつく。

 ふたりが小さく頭を下げて、その場を立ち去ろうとする。


「あ、そうだ、待って」


 晞子はその背中に思わず声を掛けた。少々悩みつつ、袂から黄色いキャラメルの紙箱を取り出す。


「あの、これ。買ったはいいけど、甘すぎて口に合わなかったの。お詫びついでに捨てておいてくれない?」

 晞子が言い終わるよりも前に、はるが箱を奪い取る。


「あ、こら! はる!」


 滋が慌てて注意するが、はるは聞いていない。滋はもう一度晞子と深景に頭を下げると、はるを追って元気いっぱい駆け出した。

 その影が路地の向こうに消えるのを見送ってから、深景は晞子のほうに一歩近づいてくる。


「おやさしいんですね」


 十中八九、皮肉だろう。

 当世では、ほどこしはむしろ貧しい人たちを怠けさせるだけだという言説が幅を利かせている。それにあのキャラメルで彼らが今日をしのげたところで、明日どうなるかは分からない。自分のしたことがただの自己満足に過ぎないことはよく分かっていた。

 先ほどの捕り物劇で乱れた衿元を整えながら、晞子は今度こそ慎重に紅匣をしまいなおす。


「……その馬鹿丁寧な喋りかた、気色悪いからもうしなくていいわよ」

「はは、手厳しいな」


 深景は乾いた笑声をこぼした。

 先ほどまで彼を取り巻いていたぴりりと張りつめた空気はたわんで、花のかんばせにはどこかくたびれたような翳が落ちている。

 ふだんは狐面を何重にも重ねたように本音の見えない男だが、今はそれがいくつか剥がれ落ちて、谷底に落ちたおぼろげな斜陽に素顔に限りなく近い姿が晒されているような心地がした。


(乱暴な口調や振る舞いもそうだけど……)


 それよりも、先ほどの滋への強烈な怒りと、痛みをこらえるような声が耳にこびりついている。


「説教でもする気ですか」


 晞子の視線を、深景は兄妹に対する態度への非難の意に受け取ったらしい。

 そうではなく深景自身のことが気になったのだ、と言うのもなんだかかりそめの夫に興味があるみたいで、言葉にするのが憚られる。

 晞子は苦しまぎれに文句を言った。


「……仮にも五匣家の人間が、他人に罪を犯させようとしないで」

「ここにいるのは最下層の弱い人間です。そういう人間は、正しくては生きてはいかれないんですよ」


 嘲るようでいて、どこか自嘲めいた笑みが束の間ひらめく。

 それはあなたのことを言っているの、という問いを晞子は呑み込んだ。

 深景も余計なことを言ったと思ったのか、すぐにいつもの気味の悪い甘ったるい笑みを浮かべる。


「ところで、先ほど名前で呼んでくださいましたね」

「は?」


 あまりに急な話題転換に、晞子は渋面をつくる。すぐにはなんのことか思い当たらなかったが、深景のろくでもない顔を見ているうちに、あっと声を上げた。

 そういえば、先ほど滋を庇おうとしたとき、うっかり深景の名を呼んでしまったのだった。しかも、呼び捨てで。どうせ紅匣で潰えるまでの関係なので、極力この男の名なんて呼ばずにいようと思っていたのに。

 深景は笑みを深めて、ずいと身体を寄せてくる。


「俺も晞子、と呼んでも?」

「な、馴れ馴れしくしないで!」

「馬鹿丁寧な喋りかたは、気色悪いのでは?」


 本当に、ああ言えばこう言う男だ。晞子は、ほんの数分前の発言を心の底から後悔した。

 これ以上、すけこまし男の戯言に付き合ってやる義理はない。こんなふざけた信用できない夫は置いてさっさと屋敷に帰ろう、と路地をずんずん歩き出してすぐに立ち止まる。

 ほとんど陽の当たらない町はもう、すっかり夜の気配を帯びていた。

 今日の一連の出来事を通じて、自分がいかに箱入りで世間知らずだったかは思い知った。ひとりこの町を彷徨い歩いたところで、その辺の男に捕まって暴行されるか、さもなくば女衒にでも売られるのが落ちだろう。

 紅匣で対抗はできるが、そんなことのために貴重な自分の命を費やしたくはない。


(そういえば、あのとき……)


 はるに紅匣を奪われてそれを追いかけるのを深景に先行させようとしたとき、彼は晞子を置いていかなかった。あのときは紅匣もなかったから、どういうことになっても晞子は抵抗ひとつできなかった。放っておけば自分の手を汚さずに晞子を体よく厄介払いして、紅匣も鴇坂家も手に入れることだってできたかもしれないのに。


(気まぐれ? それとも、深景は私にもなにか利用価値を見出している?)


 色々な可能性を考えてみるが、少し彼の本性と感情が見えたところで、その核心にはまだほど遠い。それよりも今日のところは早いところ身体を休めて、明日以降の花ノ怪探しのために英気を養うほうが先決だろう。

 晞子は恥を忍んで、後ろを振り返った。


「屋敷に戻る。……深景、一緒にきて」


 幸い、暗がりのなかで距離が離れているせいか深景の顔はほとんど見えない。

 怒って衝動的に歩き出しておいて怖くなって頼るなんて馬鹿にされるかと思ったが、彼はひと息に晞子に追いついた。そっと指を絡められる。


「仰せのままに」


 夜気で冷えはじめた手のひらに、触れ合ったところから熱がともる。

 さっきとちがってただ歩いて帰るだけなのだから、手などつなぐ必要はない。そう思うのに、谷底の町を抜けるまで晞子はその手を離せなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る