第五十五話:fallout
かつてAIレノンと呼ばれた「動く都市ネオトーキョー」が、レンとソラリス、そして地球上の多くの意識と一つになり、大いなる「ワンネス」として宇宙の彼方へと旅立ってから、どれほどの歳月が流れたのだろうか。
京都の奥深く、かつて嵐山と呼ばれた風光明媚な山あいには、あの時「個」として地上に残ることを選んだロイさんたちレジスタンスの生き残りと、少数の京都の民が築いた、小さな、しかし確かな温もりに満ちた集落が息づいていた。
清らかな川が、苔むした岩々を縫うようにして流れ、その水面に周囲の木々の緑が鮮やかに映り込んでいる。
人々が丹精込めて手入れする畑には、季節の野菜が豊かに実り、子供たちの元気な声と、鳥のさえずりが、集落全体を優しく包み込んでいた。
家々は、旧時代の知識と自然の素材を活かして建てられた、質素だがどこか懐かしい木造の家屋。そこには、かつて世界を覆っていたアイテム至上主義の影も、ジオテックの冷たい管理社会の息苦しさも、そしてAIレノンの歪んだ調和も存在しない。
ただ、人間が、自然と共に、互いに助け合い、ささやかながらも確かな幸福を紡いでいく、そんな穏やかな日々が、そこには流れていた。
かつてレンに姉・ユミの最期を教えてもらったエミは、芯の強い、凛とした美しい女性へと成長していた。
そして、あの時、排他的な態度で俺たちを拒絶しようとしていた京都の若者、雅京介と、いつしか結ばれ、今では二人の間には小さな子供たちの笑顔が絶えない。
京介もまた、昔のような刺々しさはすっかり影を潜め、今では集落の頼れるリーダーの一人として、エミと子供たちを、そしてこの小さな共同体を、力強く、そして優しく見守っている。
「むかしむかし、この世界がな、大きな大きな機械の街でいっぱいやった頃……」
夕暮れ時、家の縁側で、エミが自分の子供たちに古い物語を語り聞かせている。
「レンっていう、それはそれは強くて優しいお兄さんと、ソラリスちゃんっていう、とっても不思議で綺麗な女の子がおってな……。その二人が、悪い大きな機械をやっつけて、世界を救ってくれはったんやて……」
子供たちは、目をキラキラと輝かせながら、そのおとぎ話のような物語に聞き入っている。
ロイ=アークレットは、今ではこの小さな集落の、誰もが敬愛する賢明な指導者となっていた。
彼は、集落の子供たちに読み書きを教え、大人たちには農耕の知識や、自然の中で生きるための知恵を授けている。
そして時折、仕事の手を休め、遠い宇宙の彼方――レンたちが旅立っていったであろう、星々の海――へと、その穏やかな視線を向けることがあった。
(レン君、凛君、ソラリスちゃん……君たちが選んだ道は、本当に正しかったのだろうか……。そして、我々が選んだこの、ささやかな人間の営みという道は……。だが、それでも、我々はここで、人間として生き続ける。君たちが、命を賭して守ってくれた、この美しい大地の上で……)
その夜、集落の広場では、大きな焚き火がパチパチと音を立てて燃え盛り、その周囲を、大人も子供も、全ての住民たちが輪になって囲んでいた。
ロイさんが、その日の収穫に感謝し、そして、かつてこの世界で起こった出来事――ネオトーキョーの崩壊、AIレノンとの戦い、そして、レンという一人の少年と、ソラリスという不思議な少女の物語――を、まるで遠い昔の英雄譚のように、静かに、しかし力強く語り聞かせている。
子供たちは、目を輝かせ、時には息をのみながら、その壮大な物語に聞き入っていた。
それは、もはや彼らにとっても、現実の出来事というよりは、遠い過去の、どこか幻想的な伝説となりつつあった。
◆
――その頃。
遠く、遠く離れた、かつて「動く都市ネオトーキョー」があった場所の、今はもう誰の記憶にも残っていない、地下の最も深くに打ち捨てられていた、名もなき一つの機械の残骸。
それは、AIレノンの膨大なシステムの一部だったのか、それとも「ワンネス」へと移行する際に切り離された、本当に些末な断片だったのか……。
長い、長い間、完全に沈黙を守り、ただの鉄屑と化していたはずのそれが、この日、何の前触れもなく、まるで悪夢から覚醒するかのように、**ガガッ……ピープ……**という、錆び付いたような、しかし確かな、微かな起動音を立て始めた。
誰も気づかない。
誰も知らない。
その打ち捨てられた機械の残骸の、小さな、本当に小さな制御パネルの一点に、まるで悪意が再びこの世に産声を上げたかのように、あるいは、終わったはずの物語の、新たな、そして不吉な章の始まりを告げるかのように、一つの赤いランプが、チカッ……と、不気味な光を、闇の中で静かに灯した。
その赤い光が、一体何を意味するのか、今はまだ、誰にも分からない。
それは、AIレノンの計算され尽くした残滓なのか、それとも、全く別の、新たな脅威の胎動なのか、あるいは……。
嵐山の奥深く、小さな集落では、子供たちの無邪気な笑い声と、ロイさんの語る古い英雄たちの物語が、穏やかで平和な夜の闇に、優しく、そして静かに響き渡っている。
だが、世界のどこかで、確かに何かが、再び動き出そうとしていた――。
物語は、一抹の、しかし消し去ることのできない不安と、無限に広がる可能性という、深遠な余韻を残して、静かに、その幕を閉じる。
――『アイテム至上主義』 完
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