エピソード18:開かれた扉

 国王の苦渋の決断は、アストライアとエイルシュタットの間に、新たな、そして異例の協力関係を築くこととなった。リリアーナは、アストライア王国の名代として、エイルシュタットとの共同開発プロジェクトの総責任者に任命された。


 アストライア王室からの返答は、通常よりも厳重な封印が施され、迅速にエイルシュタット王国へと届けられた。その知らせを宰相から受け取ったアルフレッド国王は、静かに封蝋を破り、書状の内容に目を通した。彼の表情は、一瞬たりとも変わらなかったが、その瞳の奥には、すべてを見通していたかのような、深い満足の光が宿っていた。


「……やはりな」


 アルフレッドは、書状を読み終えると、淡々と呟いた。彼の隣で控えていた宰相は、その一言に、国王の揺るぎない確信を感じ取った。


「陛下、アストライア国王は、我々の共同開発の提案を受け入れた、と?」


 宰相が恐る恐る尋ねると、アルフレッドは頷いた。


「うむ。ヴァレンシュタイン侯爵令嬢を共同開発の総責任者としてエイルシュタットに派遣し、共同で技術開発を進める、とのことだ」


 その言葉に、宰相は安堵と興奮の入り混じった息を漏らした。だが、アルフレッドは感情を露わにすることなく、書状に記された「条件」に視線を落とした。


「ただし、アストライア王国主導であり、技術的知見は彼らに独占的に帰属するとある。そして、侯爵令嬢は亡命ではなく、あくまで使節団の一員として派遣される、か」


 アルフレッドの口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、アストライア国王の意地と、リリアーナを完全に手放すことを良しとしない、彼なりの苦渋の決断を理解した上での笑みだった。


「アストライア国王は、私の見込み通り、自ら『金色の鳥籠』の扉を開いた。だが、完全に開け放つことはできぬと、そう判断したのだろう」


 彼は、リリアーナがシオンに問いかけ、その後に国王に直訴したというエーリヒからの密報を思い出していた。アストライア国王の決断は、リリアーナの強い意思と、シオンの助言がなければ決してありえなかっただろう。


「これで、リリアーナ・ヴァレンシュタイン侯爵令嬢は、我々の地にやって来る。そして、寒冷地での実証という、彼女が最も求めていた研究環境を手に入れるのだ」


 アルフレッドの言葉には、計画が順調に進んでいることへの満足と、リリアーナの才能を最大限に引き出すことへの期待が込められていた。アストライアが技術の独占を謳っているとはいえ、リリアーナがエイルシュタットで研究を進める中で得られる知見は、計り知れない価値を持つ。そして、一度協力を始めれば、その関係は簡単に断ち切れるものではないことを、アルフレッドは熟知していた。


「宰相、準備を進めよ。ヴァレンシュタイン侯爵令嬢と、アストライアの使節団を丁重に迎え入れるのだ。特に、侯爵令嬢には、最高の研究環境と、真に自由な探求の場を提供せよ」


 アルフレッドは、国王の条件を受け入れつつも、リリアーナの心を完全に掴むための、最後の布石を打った。アストライアが彼女に与えられなかった「真の自由」を、エイルシュタットでこそ提供できると示すことで、リリアーナの心を完全に自国に傾けさせようとしていたのだ。


「これで、我がエイルシュタットは、永年の悲願を達成する道筋を得た。そして、この冬を乗り越えるだけでなく、遥かなる未来へと繋がる、確かな礎を築くのだ」


 アルフレッドの瞳は、未来を見据えるように輝いていた。彼は、これが単なる技術供与に留まらず、北の国が大陸の歴史に新たな一ページを刻む、その第一歩となることを確信していた。


 アストライアの王都を発つ日、リリアーナの馬車には、王立魔導研究所から選抜された数名の優秀な技術者たちと、シオン・ノクティスの弟である若き魔術師、レオン・ノクティスが同行していた。レオンは、シオンの推薦により、リリアーナの補佐として、そしてアストライア王室の意向を伝える役割も担っていた。彼の存在は、国王がリリアーナを完全に手放したわけではない、という意思の表れでもあった。


 数週間の旅路を経て、リリアーナ一行は、一面の銀世界に包まれたエイルシュタット王国へと到着した。そこには、アルフレッド国王の命を受け、特使として出迎えにきたエーリヒ・フォン・エーベルハルトの姿があった。


 リリアーナとエーリヒは、再会を果たすと、互いに静かに挨拶を交わした。そこには、かつて「金色の鳥籠」からの誘いをかけた側と、それを熟考した側の間に流れる、独特の緊張感と、新たな協力関係への期待感が混じり合っていた。


 白銀に輝くエイルシュタット王都の城門をくぐり、リリアーナの一行は厳かな王宮へと迎え入れられた。肌を刺すような北国の風も、彼女たちの心を凍らせることはなかった。むしろ、その冷気の中に、新たな研究への熱い期待が募るのを感じた。


 謁見の間は、アストライアの豪華絢爛なそれとは趣を異にしていた。簡素ながらも厳かな石造りの空間は、北国の厳しい自然と、そこに生きる人々の実直さを物語っているかのようだった。その中央には、アルフレッド国王が、宰相とエーリヒ・フォン・エーベルハルトを従え、威厳に満ちた姿で立っていた。


 アルフレッドは、リリアーナの姿を認めると、玉座から降り、彼女の元へと歩み寄った。その顔には、かつてエーリヒから受けた報告の中で垣間見せた冷徹さではなく、彼女の才能への深い敬意と、自国の未来を託す確かな期待が浮かんでいた。


「リリアーナ・ヴァレンシュタイン侯爵令嬢。遠路はるばる、我がエイルシュタット王国へようこそおいでくださった」


 国王は、リリアーナの前に立つと、深々と頭を下げた。その行動に、リリアーナの後ろに控えるアストライアの技術者たち、そしてレオン・ノクティスは息を呑んだ。一国の王が、他国の侯爵令嬢に、これほどの敬意を示すとは想像していなかったからだ。


「アルフレッド国王陛下。この度の御招き、誠に光栄に存じます」


 リリアーナもまた、国王に対し、侯爵令嬢としての礼を尽くした。彼女の瞳は、国王の真意を探るように静かに輝いていた。


 アルフレッドは、優しくリリアーナを促した。


「貴殿が、この地の厳しい気候の中で、どれほどの貢献をしてくださるか、我が国民一同、心待ちにしております。貴殿の技術が、我が国の暗闇を照らし、寒さを打ち払う光となることを、心より願うばかりだ」


 その言葉には、儀礼的な響きは一切なく、国民の切実な願いが込められていることを、リリアーナは感じ取った。


 国王は、リリアーナの補佐として同行してきたレオン・ノクティスにも視線を向けた。


「ノクティス卿。貴殿がヴァレンシュタイン侯爵令嬢を支え、この共同開発を成功に導いてくださることを期待している。貴殿とヴァレンシュタイン侯爵令嬢の知見が融合すれば、このプロジェクトは必ずや成功するだろう」


 レオンは、国王の言葉に緊張しつつも、深々と頭を下げた。


 そして、アルフレッド国王は、謁見の間に集められたエイルシュタットの技術者たちに目を向け、力強く宣言した。


「リリアーナ侯爵令嬢は、我が国の最高の環境で研究に専念できるよう、全ての権限を与えられる。彼女の言葉は、我が王国の命令に等しい。いかなる邪魔も、干渉も許さない。貴殿たちは、彼女の指示に従い、その研究を全力で支えよ。これこそが、我がエイルシュタット王国が、この共同開発に臨む揺るぎない決意である!」


 その言葉は、アストライア国王がリリアーナに与えた「一切の介入を行わない」という曖昧な約束とは異なり、明確で、そして絶対的な「真の研究の自由」を保障するものだった。


 国王は、リリアーナのために、王宮の敷地内に隣接する形で、最新の研究施設を用意していた。それは、アストライアの研究所に匹敵する、いや、寒冷地研究においてはそれを凌駕する可能性を秘めた、暖房設備、防寒対策、そして特殊な環境シミュレーション装置を備えた、まさに氷雪の実験場と呼ぶべき場所だった。


 リリアーナは、アルフレッド国王の揺るぎない覚悟と、彼が示す全面的な信頼を肌で感じ取った。彼女のアイスブルーの瞳は、確かな決意の光を宿していた。この地で、彼女は「金色の鳥籠」から解き放たれ、自身の技術を、そして世界を、真に変革させる道を歩み始めるのだ。


 エイルシュタットの広大な凍土には、共同開発のために設けられた仮設の試験施設が点在していた。雪に覆われた山岳部、凍てつく湖のほとり、そして極夜が続く北部の僻地。アストライアから派遣された技術者たちは、その厳しい環境に最初は戸惑いを隠せなかったが、リリアーナの指導とエイルシュタット側の魔術師たちの協力のもと、すぐに研究に没頭していった。


 リリアーナは、自らも防寒具に身を包み、凍えるような寒さの中で、試験設置された「自動魔力収集器」のデータ計測に立ち会った。極低温下では、魔力伝導率が予想以上に低下し、収集器の素材には微細なひび割れが生じることがあった。夜間や曇天では、空気中の魔力波動が微弱になり、収集効率が大幅に落ち込む。猛吹雪の日には、集積装置が雪で目詰まりを起こし、稼働が停止してしまう事態も頻発した。


「なるほど、これがアストライアでは知り得なかった、この技術の真の課題……」


 リリアーナは、凍える指でデータタブレットを操作しながら、静かに呟いた。彼女の瞳は、困難に直面するほどに、より一層の探求の光を宿していた。


 エイルシュタットの技術者たちは、リリアーナの天才的な発想と、アストライアの高度な魔導理論に驚嘆しながらも、自らが長年培ってきた「極寒の知恵」を惜しみなく提供した。


「侯爵令嬢、この地方で産出される『凍結樹脂』は、低温下でも粘性を保ち、魔力を透過しにくい特性がございます。魔力貯蔵タンクの保温層に応用できるかと」

「吹雪の日は、風の流れを読んで収集器の配置を調整する土着の魔術がございます。これを自動除雪機構に応用できないでしょうか?」


 彼らが持ち込んだ耐寒性を持つ特殊な魔術鉱物や合金は、収集器の主要部品の強度を飛躍的に向上させた。また、雪崩の予測方法、効率的な除雪技術、地中深くでの魔力導管の最適な埋設深度といった、彼らの経験則や土着の魔術的知識は、設計や運用計画に具体的な解決策をもたらした。リリアーナは、彼らの知見を貪欲に吸収し、自らの理論と融合させていった。


 最も困難だったのは、低照度下での収集効率の改善だった。極夜の続く地域での実験では、昼間でも空は薄暗く、夜は漆黒の闇に包まれる。リリアーナは、この課題を克服するため、空気中の微細な魔力波動を最大限に捉え、増幅する新たな術式理論を考案した。それは、アストライアでの研究だけでは決して到達しえなかった、概念を覆すような発見だった。


 実証実験は、エイルシュタット全土の様々な気候帯に拡大された。山岳部の高地、風の吹き荒れる平野、そして氷点下数十度にもなる凍結した沿岸部。膨大な運用データが日々収集され、リリアーナの研究チームはそれを徹底的に解析した。その結果、これまでの常識を覆すような、魔力流の新たな特性や、環境に応じた最適な収集器の形状、配置方法が次々と発見されていった。


 特に、猛吹雪の中での収集器の耐性と、極夜の闇の中で微かな魔力すらも捉える増幅術式の完成は、アストライアの技術者たちに大きな衝撃と、新たな研究の可能性をもたらした。彼らは、自国では得られなかったこの貴重な経験と知見に、深く感銘を受けていた。


 レオン・ノクティスは、その全てを目の当たりにし、リリアーナへの尊敬の念を一層深めていた。彼がシオンに送る報告書は、もはや義務的なものではなく、リリアーナの天才性とその研究成果への純粋な興奮で満たされていた。


 氷と雪に覆われたエイルシュタットは、リリアーナの「光」を試す、過酷な実験場だった。しかし、その厳しい環境こそが、彼女の技術を磨き上げ、真に普遍的なエネルギーインフラへと進化させるための、最も重要な舞台となっていたのだ。


 リリアーナは、エイルシュタットでの共同開発に全身全霊を傾けた。彼女は、自らの技術が真に普遍的なものとなるために、この機会が不可欠であると理解していた。エーリヒは、リリアーナの要求を最大限に尊重し、研究環境を整え、必要な資源を供給した。彼は、リリアーナがアストライア王室に縛られない「真の自由」を求めていることを知っていたからこそ、彼女の純粋な探求心を尊重したのだ。


 レオン・ノクティスは、当初はアストライア王室の意向を強く意識していたが、リリアーナの圧倒的な才覚と、エイルシュタットの技術者たちの真摯な姿勢に触れるうち、次第にこの共同開発の意義を深く理解していった。


 エイルシュタットの厳しい自然環境は、リリアーナの研究に新たな壁を与え、しかし同時に、それを乗り越えるための新たな知恵と可能性をもたらした。氷雪の実験場で、アストライアの技術とエイルシュタットの知見が融合し、「自動魔力収集器」は、真に普遍的なエネルギーインフラへと進化を遂げようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る