エピソード7:交渉と親心
侯爵夫妻は、シオンの再訪に驚きを隠せない様子だった。国王への報告と、その後の王室の正式な返答を待つばかりだと思っていた矢先の訪問だったからだ。
「シオン・ノクティス様、再びのご来訪、誠に恐縮でございます。何か、正式なご返答でも……?」
侯爵は、客間に通されたシオンに、やや緊張した面持ちで尋ねた。侯爵夫人も、その隣で固唾を飲んで見守っている。
シオンは彼らを真っ直ぐに見据え、一切の私情を挟まずに、国王の言葉を伝えるかのように、切り出した。
「ヴァレンシュタイン侯爵、侯爵夫人。先日、リリアーナ侯爵令嬢の革新的な魔導具について、国王陛下にご報告いたしました。陛下は、その偉業に深く感銘を受けられ、王国にとって計り知れない恩恵をもたらすものと認識されております」
侯爵夫妻の顔に、わずかな安堵と誇らしさが浮かんだ。娘の才能が、ついに王国の最高位の人物に認められた。その事実に、これまでの苦労が報われるような思いがした。
しかし、シオンの表情は変わらず、その声にわずかな響きを加えて言葉を続けた。
「つきましては、王室として、リリアーナ侯爵令嬢の研究を全面的に支援する所存です。しかし……」
シオンは一呼吸置き、国王の真意を伝えるべく、言葉を選びながらも明確に告げた。
「侯爵令嬢が提示された条件の内、『研究への一切の介入をしないこと』という点については、陛下は賛同しかねるとのお考えでございます。この技術が王国にもたらす影響はあまりに大きく、王室としてその進捗を把握し、管理できる体制を構築する必要があると、陛下は判断されました」
侯爵夫妻の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼らが最も恐れていた「介入」という言葉。それは、リリアーナの努力と功績が、王室の都合で利用されてしまうのではないかという懸念を再燃させた。
夫人が震える声で尋ねた。
「それは……娘の研究が、王室の管理下に置かれるということでしょうか……?」
シオンは視線をそらさず、毅然として答えた。
「はい。そのようにご理解いただいて差し支えありません。侯爵令嬢の才能は最大限に尊重され、研究の自由も保障されるでしょう。しかし、その成果は王国全体に影響を及ぼすものであり、国家の根幹に関わる重要な技術である以上、王室がそのすべてを把握できる体制が不可欠でございます」
侯爵は、シオンの言葉の裏に隠された、国王の強い意思を感じ取った。これは、要請ではなく、命令に近いものだと。
「しかし、シオン様……娘は、その条件を何よりも重要視しておりました。彼女の強い意志を、我々が覆すことは……」
侯爵が言葉を詰まらせると、シオンの声がさらに重みを増した。
「侯爵。陛下は、この技術を何としてでも王国のものとせねばならぬ、と仰せです。リリアーナ侯爵令嬢の才能を惜しむがゆえの、陛下のご決断でございます。しかし、もしこの交渉に応じないようであれば……」
シオンは、侯爵夫妻の顔をじっと見つめ、ゆっくりと言葉を選んだ。
「誠に不本意ではございますが、陛下は、ヴァレンシュタイン侯爵家にも圧力をかけることを辞さないと申されました」
その言葉は、侯爵夫妻の心臓を鷲掴みにするかのようだった。国王からの手厚い補償と名誉回復が、一瞬にして霞むような衝撃。彼らが何よりも恐れていた、王室からの「圧力」という現実が、目の前に突きつけられたのだ。
侯爵は全身から血の気が引くのを感じた。ランベール伯爵家の処分を目の当たりにしているだけに、王室の圧力が何を意味するか、嫌というほど理解していた。侯爵家がこれまで築き上げてきた地位も、名誉も、全てが危険に晒される。そして何よりも、ようやく心の平穏を取り戻しつつあるリリアーナが、再び深い絶望に突き落とされるかもしれない。
「それは……どのような……?」
夫人が、絞り出すような声で尋ねた。
シオンは、表情を変えることなく答えた。
「それは、陛下のご判断次第でございます。しかし、ヴァレンシュタイン侯爵家の長年の功績と、王室との絆を鑑みても、これ以上の波風は、王国にとっても、そして侯爵家にとっても、決して望ましくない。陛下は、あくまで平和的な解決を望んでおられます」
それは、遠回しな脅しだった。侯爵夫妻は顔を見合わせた。リリアーナの意思を尊重したい気持ちと、侯爵家を守らねばならないという責任感。そして、何よりも娘の安全を確保したいという親としての本能が、彼らの心の中で激しく衝突していた。
「どうか、賢明なご判断を。この技術が王国にもたらす恩恵は、計り知れない。リリアーナ侯爵令嬢の才能を、閉鎖的な研究室に留めておくにはあまりに惜しい。これは、彼女の才能を世界に知らしめ、その名を歴史に刻む機会でもございます」
シオンの言葉には、一見すると説得と助言の響きがあったが、その根底には、王室の絶対的な意思が宿っていた。
侯爵は、シオン・ノクティスの言葉を聞き、内心で激しく動揺した。国王が「圧力をかけることも辞さない」とまで言い切る、その言葉の重みは尋常ではない。それは、リリアーナの生み出した技術が、王室がこれまでの態度を翻してまで手に入れようとするほど、計り知れない価値を持つものなのだと侯爵は悟った。
これまでの彼らは、娘の魔導具研究を「王妃にふさわしくない奇行」としか見てこなかった。しかし、シオンの熱弁と、国王のなりふり構わぬ姿勢が、その認識を根底から覆した。リリアーナの才能は、彼らが想像していた遥か上を行くものだったのだと。
同時に、侯爵の脳裏には、リリアーナが提示した「研究への一切の介入をしないこと」という揺るぎない条件が蘇った。王室がその主導権を握ろうとしている今、この条件こそが、侯爵家にとって最大の「切り札」となるのではないか。
侯爵は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、親としての愛情と、侯爵家を守るための計算、そして娘の才能を世に認めさせたいという、複雑な感情が入り混じっていた。
「シオン様」
侯爵の声は、先ほどまでの動揺とは打って変わり、静かだが確固たる響きを帯びていた。
「娘のリリアーナが、その研究の主導権を何よりも重視していることは、先ほども申し上げた通りです。彼女のあの頑なな性格は、一度決めたことを決して曲げません」
侯爵は、シオンの視線を受け止め、続けた。
「そして、その研究が、シオン様が仰せの通り、王国にとって計り知れない恩恵をもたらすものだと、私も理解いたしました。であれば、この技術が滞りなく王国のために活用されることが、何よりも重要でございましょう」
シオンは、侯爵の言葉の意図を測りかね、静かに侯爵を見つめ返した。侯爵夫人は、夫の急な態度の変化に驚き、息を呑んでいる。
「しかし、我々は婚約破棄以降、世間の間では、好奇な目に晒されるようになったのも事実です。それはリリアーナも同じこと」
侯爵は、一呼吸置いて、核心を突く言葉を口にした。彼の声はさらに落ち着き、交渉の糸口を探るかのように続けた。
「国王陛下のご配慮により、名誉は回復され、補償もいただきました。しかし、人々の記憶から、一度ついた『訳ありの家』というレッテルが消え去ることは容易ではありません。特に、リリアーナは公衆の面前で屈辱を受け、その心に深い傷を負っております。たとえ国王陛下が『彼女の資質の問題ではない』と仰せになっても、貴族社会の噂は、常に冷たい風を我々に吹き付けてくるのです」
侯爵は、そこでシオンの反応を伺うように一度言葉を切った。侯爵夫妻が感じている貴族社会からの圧力、特にランベール伯爵家に近しい者たちからの嫌がらせは、王室からの補償では到底拭いきれない現実的な問題だった。
「そのような状況で、リリアーナの研究に王室が『介入』するという形になれば、世間はどのように受け止めるでしょうか? 『王室が天才少女の成果を奪い取った』『婚約破棄の償いとして、技術を強奪した』――そのような噂が広まれば、国王陛下の慈悲深いお心遣いも、ヴァレンシュタイン侯爵家の名誉回復も、全てが水の泡となるでしょう。それこそ、王室の権威をも揺るがしかねません」
侯爵の言葉は、単なる嘆願ではなかった。それは、王室の行動が世間にどう映るか、その政治的影響を冷静に分析した、周到な提言だった。彼は、リリアーナの頑固な性格と、貴族社会の冷たい現実を逆手に取り、ヴァレンシュタイン家の名誉回復に利用しようとした。
「故に、シオン様。この技術を王国のために最大限に活かすのであれば、何をすべきかは、自ずと答えが出るのではございませんか?」
侯爵の言葉は、シオンの心を深く揺さぶった。彼は、王室の忠実な臣下であると同時に、純粋な探求者でもあった。リリアーナの才能を誰よりも高く評価している彼にとって、彼女の情熱が何よりも尊重されるべきだと感じていた。そして、侯爵が指摘した「王室による強奪」という世間の見方も、現実として起こりうる危険なシナリオだった。
シオンはゆっくりと目を開け、侯爵のまっすぐな視線を受け止めた。彼の瞳には、わずかな葛藤と、しかし確固たる決意が宿っていた。
「侯爵、貴殿の仰ることは、ごもっともです」
シオンは静かに、しかし明確な声でそう答えた。侯爵夫妻の顔に、わずかな希望の色が灯る。
「陛下は、この技術を王国のものとすることを強く望んでおられます。しかし、それが侯爵令嬢の心を閉ざし、研究が停滞してしまうようでは、本末転倒でしょう。ましてや、世間の反感を買い、王室の権威を損なうような事態は、決して望ましくありません」
シオンは、国王の命令と自身の信念との間で、最善の道を探るかのように言葉を続けた。
「私は、国王陛下にこのことを進言いたします。陛下には、リリアーナ侯爵令嬢の才能と、その心を真に理解することが、王国にとって最大の利益となることを、改めてお伝えしましょう」
シオンはそう告げると、ゆっくりと立ち上がった。彼の表情には、もはや葛藤の影はなく、未来を見据える研究者としての情熱と、王室高位魔術師としての責務を全うする覚悟が満ちていた。
その日のうちに、シオンは再び国王の執務室へと足を運んだ。国王は、シオンの言葉を沈黙して聞いていたが、その表情は険しいままだった。
「陛下、ヴァレンシュタイン侯爵の進言、深く考慮されるべきかと存じます。リリアーナ侯爵令嬢の技術は、確かに王国にとって計り知れない価値がございます。しかし、彼女の心を蔑ろにして無理に主導権を奪えば、彼女は再び心を閉ざし、その才能は二度と日の目を見なくなるでしょう。そうなれば、王国は最大の恩恵を失うことになります」
シオンは、侯爵の言葉をそのまま引用し、世間が王室の行動をどう見なすかについても詳しく説明した。
「世間では、殿下による婚約破棄に関連する噂は深刻な問題となりつつあります。その上でさらに、王室が彼女の技術を『介入』という形で手に入れようとすれば、『王室が娘の心を傷つけ、挙げ句の果てに才能を奪い取った』と非難するでしょう。そうなると、アストライア王室は国民の信頼を完全に失い、最悪の場合、内部からの反乱や外部からの介入を招く可能性すらあります。」
シオンの言葉は、国王に厳しい現実を否応なく突きつけた。国王は、深く考え込むように目を閉じた。彼の脳裏には、あの夜のリリアーナの無表情な姿が蘇る。そして、王室の権威を揺るがしかねない世論の評価。
「では、シオンよ。お主は、あの娘の条件を全て受け入れろと申すのか?」
国王の声には、まだ不信感が混じっていた。
「いいえ、陛下。私は、侯爵令嬢の条件を最大限に尊重しつつ、王室が彼女を『支援』する形を提案いたします。彼女の研究の主導権はリリアーナ侯爵令嬢自身にあり、王室はあくまでその研究を後援するという形です。これにより、彼女は研究の自由を保障され、その才能を存分に発揮できるでしょう。そして、王室は彼女の最大の理解者であり、後ろ盾であるという印象を世間に与えることができます。」
シオンは、具体的な提案を続けた。
「まず、王室魔術師団は、彼女の研究に必要なあらゆる物資、情報、そして人員を惜しみなく提供することをお約束します。また、研究の進捗については定期的に共有を受けますが、あくまで彼女の意思を尊重し、助言に留める。発表の際には、彼女の名を最上位に据え、王室は共同研究者、あるいは後援者として名を連ねる。これにより、リリアーナ侯爵令嬢の功績は正当に評価され、彼女の名は王国中に轟くでしょう。」
国王は、シオンの提案を静かに聞いていた。それは、王室の権益を確保しつつ、リリアーナの尊厳と才能を最大限に尊重する、巧みな妥協案だった。そして何より、世間の反感を買い、王室の権威を損なう事態を避けられる。
国王は、玉座から立ち上がり、シオンの前に進み出た。
「シオン。お主の進言、聞き入れよう」
国王の声には、迷いはなかった。
「ヴァレンシュタイン侯爵令嬢に伝えよ。王室は、彼女の研究を全面的に支援する。そして、彼女の提示した条件を尊重し、彼女の名の下にこの技術を発表すること、研究の主導権が彼女にあることを確約する、と」
国王の言葉は、リリアーナにとって、これまでの人生で誰も与えなかった「理解」と「信頼」を意味するものだった。
シオン・ノクティスは、国王の明確な勅命を胸に、三度ヴァレンシュタイン侯爵邸の門をくぐった。侯爵夫妻は、シオンの再訪に一抹の緊張を覚えつつも、彼が朗報をもたらしてくれることを期待し、彼の言葉を固唾を飲んで待った。
客間で国王の決定を簡潔に伝えたシオンの言葉に、侯爵夫妻の顔には深い安堵の色が浮かんだ。娘の才能が認められ、王室が介入ではなく「支援」という形を取る。そして、何よりもリリアーナが主導権を持つことが確約された。これ以上の望みはない、と二人は胸を撫で下ろした。
「リリアーナに、直接お伝えしましょう」
侯爵はそう言って、シオンをリリアーナの研究室へと案内した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます