「テレパシー課長! それ、わたしを誘ってますか?」
志乃原七海
第1話:あれだよ!あれ!
テレパシー課長! それ、わたしを誘ってますか?
第一話:月曜朝の「あれ」と、意味深な視線
「佐藤さん、おはよう! 早速で悪いんだが、あれ、やっといてくれるか?」
月曜日の朝。淹れたてのコーヒーの香りをまとわせながら出勤してきた田中課長が、デスクに革鞄をドサリと置くやいなや、私、佐藤花子に声をかけてきた。
ああ、始まった。今週も、恐怖の「あれ」問答からスタートだ。
「おはようございます、課長。ええと…『あれ』、とは、具体的にどの案件でございましょうか?」
私は、営業スマイルを顔面に貼り付け、できるだけ穏便に、しかし核心を突くべく問い返す。心の中では、既にツッコミの嵐が吹き荒れていた。
(課長、今日の『あれ』はどの『あれ』ですかー!? 金曜に積み残した緊急案件の『あれ』? それとも週末にご自宅で閃いたという例の新規プロジェクトの『あれ』? まさかとは思いますが、デスクの上にたまったホコリを指して「掃除しておけ」の『あれ』じゃないですよねー!?)
課長は、少し面倒くさそうに眉をひそめ、それからおもむろに自分のデスクの上、何もない空間を指差した。
「あれだよ、あれ。机の上の、ほら、あそこにあるやつ。いつものように頼むよ」
…ない。何もない。少なくとも、私の視覚情報処理能力では、課長の指し示す先に具体的な「物」は確認できない。昨日、私が心を込めて綺麗に片付けた、課長の広大な(そして普段はカオスな)デスクの上には、今朝の新聞とマグカップ以外、特筆すべきものは見当たらない。
いや、待て。課長の視線は、その新聞の陰になっているあたり…いつも課長が重要書類を無造作に重ね置きする魔境ゾーンを捉えている気がする。
「…いつもの、というと…先週保留になっていた、A社への提出資料の件でしょうか?」
「違う違う! あれだよ、あれ! ほら、金曜の夕方、俺が言っただろ? 大事なやつだって。お前なら、ピンとくるはずだ」
金曜の夕方? 記憶にない。金曜の私は、月末処理と翌週の会議準備で灰になりかけていたはずだ。課長が何か「大事なこと」を言っていたとしても、当時の私の脳内メモリは完全に容量オーバーだったに違いない。そもそも、課長の言う「大事なやつ」ほど当てにならないものはない。
課長は、指でトントンと自分のこめかみを叩き、私をじっと見つめてきた。その視線が、なんだか妙に…意味深だ。
「なあ、わかるだろ? 佐藤さんなら。俺は、君を頼りにしてるんだからな」
出た、必殺フレーズ。
課長の「なあ、わかるだろ?」は、全ての思考と説明責任を放棄し、相手に丸投げするための魔法の呪文。そして、その後に続く「頼りにしてるんだからな」という言葉は、無言の圧力だ。断るな、間違えるな、俺の意図を完璧に読み取れ、と。
でも、今日の課長は、いつもと少しだけ…雰囲気が違う気がする。気のせいだろうか。その「頼りにしている」という言葉の響きが、なんだか、こう…個人的な感情が乗っているような…。
(…課長、それ、わたしを誘ってますか?)
私の脳内で、冷静な私が半笑いで、しかし真剣に問いかける。
いやいや、ないない。絶対にない。これは仕事の指示だ。でも、この、あまりにも私に委ねてくる感じ、そして「君ならわかるよね?」という、まるで以心伝心を強要するかのような馴れ馴れしさ。今日の課長の視線は、なんだかじっとりとしていて、まるで私の心の奥底まで見透かそうとしているみたいで…。
考えすぎだとは思う。でも、この不可解なコミュニケーションの先に、万が一、億が一、課長の秘めたる想いがあったとしたら…? いや、想像しただけで鳥肌が立つ。
「か、課長…申し訳ありません、金曜の夕方は少々立て込んでおりまして…具体的に、どのような資料か、あるいはどのようなご指示だったか、もう一度お伺いしてもよろしいでしょうか…?」
私は、必死に平静を装いながら、業務上の確認という体で質問を重ねる。顔が引きつっていないだろうか。
課長は「うーん」とわざとらしく唸り、それからふいに、私のデスクに一歩近づいてきた。
え、近い。
そして、声をワントーン落とし、まるで秘密を打ち明けるかのように言った。
「…いいか、佐藤さん。これは、君にしか頼めない、極秘の『あれ』なんだ。詳細は、後でこっそり伝える。とにかく、今は俺のデスクの『あれ』を、誰にも見られないように確保しておいてくれ。わかるな?」
極秘の「あれ」? こっそり伝える? 誰にも見られないように確保?
情報が断片的すぎて、逆に不安を煽られる。しかも、さっきよりも距離が近い! 課長のコロン(なのか加齢臭なのか判別不能な香り)が鼻腔をくすぐる。
そして、その「わかるな?」の言い方! まるで、二人だけの秘密を共有する共犯者のような…!
(…か、課長、それ、やっぱりわたしを誘ってますよね!? 何かの秘密任務に!? それとも、もっと別の、個人的な何かに!? 「わかるな?」って、まるで「俺たちの仲だろ?」って言ってるみたいに聞こえるんですけどーっ!)
私の心臓が、ドクドクと警鐘を鳴らす。
これは、いつもの「テレパシー業務」とは次元が違う。明らかに、何か特別な意味が込められている(ように私には感じられる)。
「か、かしこまりました…! その…『あれ』を、確保、ですね…!」
私は、もはや思考停止状態で、ロボットのように頷くしかなかった。
課長は満足そうに頷くと、「よし、頼んだぞ、佐藤くん」と、私の肩をポンと軽く叩いた。
その手の感触が、やけに生々しく残る。
(佐藤『くん』って言った…!? いつもは佐藤さんなのに…! しかも、肩ポン…! これって、親愛の情の表れ…? いや、もしかして、これは壮大な何かの始まり…!?)
課長が自分のデスクに戻っていくのを呆然と見送りながら、私は混乱の極みにいた。
今日の課長は、明らかにおかしい。
そして、私の頭の中は、「あれ」の正体と、「課長はわたしを誘っているのか?」という疑問でパンク寸前だった。
とりあえず、課長のデスクの「魔境ゾーン」に踏み込み、「極秘のあれ」らしきものを捜索しなければならない。
月曜日の朝から、私の日常は、テレパシー課長によって非日常へと誘われようとしていた。
ああ、神様。どうか、今日の「あれ」が、私の手に負えるものでありますように。そして、課長の真意が、私のとんでもない勘違いでありますように…!
(第一話 了)
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