第9話 宇宙へ

 ワタルの父は高速列車カプセルの機長をしている。


 宇宙へ行く、いわばペンシル型の昇降機は見た目だけで言えば今も陸を走っているというリニアと似ていた。父は子供の頃、リニアの運転手になりたかったらしい。その夢を高速列車カプセルの機長へ変え、今は日々地球と宇宙を繋ぐ重要な仕事を務めている。


 ワタルにとって父は遠い存在だった。高速列車カプセルの機長は、そう簡単になれるものではないという事を今のワタルは知っているから、もちろん尊敬もしている。けれど、ワタルは父と一緒に過ごした時間が余りにも少なかった。


 ワタルは家族との記憶があまりない。物心ついた時から母は宇宙で難しい研究に没頭していたし、父は地球と宇宙を行き来する日々。生活面ではシッターが、教育面では専属の家庭教師が幼いワタルの面倒をよく見てくれていた。


 二人のおかげでワタルは問題なくここまで成長してこれたが、ワタルにとって父も母も決して甘えることのできない存在だった。幼い頃は、よく宇宙を恨んだものだ。「宇宙がお父さんとお母さんを連れて行ってしまう」と。

 高速列車カプセルは20階建てで、機内移動もまたエレベーターによって行う。地球側の9階部分まではワンフロアに座席が整然と並んだエコノミークラス。10階から14階までは、二人部屋と小さな個室が用意されたビジネスクラス、15階にはギャレーと客室乗務員の休憩室がある。その上の16階から19階部分まではワンフロアが贅沢な作りになった間取りのファーストクラスで、19階のみワンフロア全て特別仕様となったエグゼクティブフロアになっている。最上階でもあり、機体の先頭でもある20階には、操縦席と機長たちの休憩室があった。


 ワタルはOSSのメンバーで貸切状態になっているビジネスクラスの中で、11階部分の二人部屋にあるレザー調の椅子に座っていた。つい先ほど、アテンダントの綺麗な女性がやってきてシートベルト装着の確認をしていったから、そろそろ発車するのだろう。ウォッチを確認すると、17時47分だった。


 軌道エレベーターは一日にいくつかの運行があったから、まさか自分が乗る高速列車カプセルの機長が父親に当たるとは思いもしていなかったワタルだったが、機内に流れる淡々としたアナウンスを耳にして、ワタルは「こういう偶然があるから不思議だ」と重々しくため息を吐き出す。


「皆様こんばんは。この便は高軌道ステーション行き18時発のOE1004便でございます。この便の機長はわたくしケンジ・ミヤマ。20名のアテンダンドと副操縦士アドレー・チャーチルが、皆様を快適な宇宙への旅のお供をいたします。当機は間もなく定刻通り発車いたします。発車後、約10分ほど加速いたしますので、お座席に着席の上、シートベルトをしっかりとお締めください。この便は低軌道ステーションまで約8時間、静止軌道ステーションまで10時間10分、その先終点高軌道ステーションまでは12時間の走行を予定いたしております。出発まで、今しばらくお待ちください」


 父ケンジのよく通る声が、ワタルにとって初めてとなる宇宙旅行の始まりを告げるのだった。

 一人部屋は気楽だと思ったが、初めての宇宙旅行で部屋に一人きりというのはなかなか心細いかもしれない。


 ワタルは大人しく椅子に座りシートベルトに締め付けられながら、二段のカプセルベッドの隣にある窓のない壁に目を向けそんなことを考えていた。


 無機質な室内はどこか宿舎にある自分の部屋に似ている。窓も無ければ潮の香りもしないことが、ワタルの心を不安にさせた。


 エコノミークラスの座席は狭く、窮屈で肩が触れ合うほどだと耳にしたが、むしろそれくらいの方が初めての宇宙旅行は安心かもしれない。地球ではない未知の空間へ向かうのに、自分ではない誰かの温もりや呼吸が感じられないという事が、こんなにも不安な気持ちを呼び起こすなんてワタルは思いもしなかった。


 その時、再び機内アナウンスが流れる。今度は涼やかな女性の声で、耳に心地よい。


「皆様、お待たせ致しました。当機は定刻通り発車いたします。機体が音速に到達するまでの十分程度、加速が続きますのでお席からお立ちになりませんようご注意をお願い致します。走行が安定するまでの間、各階、各部屋にあります擬似窓アトモフウィンドウをご覧ください。地球から宇宙へ向かう映像を中継致します。それでは皆様、快適な宇宙への旅をお楽しみください」


 アナウンスが終わるのと同時に、先ほどまで見ていた何もない無機質な壁にぼんやりと窓枠が浮かび上がる。そして青白い光と共に地上の風景が映し出された。座っているにもかかわらず、体が上昇して行く不可思議な重みを感じる。ワタルは穏やかで心地よい音楽と共に映し出される地上の風景が次第に離れて行く様子を、どこか遠くに感じながら見つめていた。知らず握り締めていた拳の中が、じんわりと汗ばむのを感じる。

 タクマがいたら、今この部屋は大変な騒がしさに包まれていただろう。どんな苦しい冒険も、つまらない時間も楽しみに変えてしまう特異な才能があるタクマの存在を、正直今、ワタルは心から欲していた。


(くそ。宇宙に行くくらい平気だと思ってたのに。全く、ここまできて、僕は……)


 ワタルは自分がこれから宇宙に行くことが未だ信じられずにいた。自分でも気づかぬうちに体が震え、お腹にきゅうっと鈍い痛みが走る。酷いストレスだった。脂汗が額に浮かぶ。


 擬似窓アトモフウィンドウは、最下部から地上を見下ろす鮮明な映像を映していた。軌道エレベーターの要でもあるチューブを軸に、機体がどんどん上昇して行く様子は不思議な感覚だった。普段見上げる高速列車カプセルに今自分が乗っているだなんて。


 海上都市オルマは夜の海の中で輝いていた。美しい円形を幾重にも浮かび上がらせるその光景は、まるで光り輝く地上絵であり、人々の生きる灯火だ。オルマの輝きはどんどん遠ざかり、やがて暗い闇の海原の中に大陸の影が見え始める。その大陸の中にも点々とした光が集まり力強く輝く場所がいくつもあった。あれが地上都市なのだと、ワタルは始めて自分の目で確認することができた。

 心臓が、不規則に波打つ。


(僕は、宇宙になんか行きたくないのに……。僕は、僕は……)


 はあ、はあと浅い呼吸を繰り返していたワタルは、機内に再び流れるアナウンスに目を閉じた。


「機体は通常通り、安定走行速度に達しました。加速を終了します。安全ランプが点灯するまで、今しばらくシートベルトを外さずお待ちください」


 父の淡々とした低い声音が、なぜかワタルの心に沁みるように響く。


 安定走行速度――およそ時速三千キロ。音速の二倍以上の速度で高速列車カプセルは宇宙へと滑るように上昇しているらしい。確かに先ほどまで感じていた重みを感じなくなった。ワタルは大きく深呼吸を繰り返し、がちがちに固まっていた手をゆっくりと開いていく。見れば、手のひらにくっきりと爪の痕が残っていた。


 加速が終わると、擬似窓アトモフウィンドウに映されていた映像が切り替わる。ワタルはその映像を見て、無意識に口を押さえていた。


「あ……」


 擬似窓アトモフウィンドウは、紺色の空に覆われている。夜空より、さらに深い濃紺。そこから漆黒へ変化する微妙なグラデーションの中に、煌く美しい星々が輝いていた。窓枠の下側には地上の曲線とともに、仄かな地上の星が輝いている。


 そう、すでにワタルは宇宙の入り口にいた。

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