『氷の貴公子は今日も下心から逃げられない』
無月公主
第1話【最悪の出会い】
王宮の大広間には、眩いほどのシャンデリアの光が降り注いでいた。
磨き抜かれた白大理石の床が、令嬢たちのドレスの裾を艶やかに映し出し、流れるような楽団の演奏が、夜会の優雅さを装っている。
しかし――その中心で、まるで獣を囲むように取り巻かれているのは、若き公爵アヴェル・ディートリードだった。
「アヴェル様、次の舞踏はぜひ私と――」「まあ、さすが氷の貴公子……こんなに近くで拝見できるなんて」
鮮やかな香水の渦と、甘ったるい笑み。
扇子の奥から覗く熱を帯びた視線に、アヴェルの眉がほんの僅かにひきつる。
(……またか)
その場に立つ彼の表情は冷淡そのもので、完璧な仮面だったが、内心では嫌悪感が渦を巻いていた。
(何が「社交」だ。これはただの猥雑な取引だ。欲望にまみれた、くだらない――)
令嬢のひとりが、わざとらしく笑みを浮かべながら、彼の腰に手を添えた。そこまでは想定内だった。
だが、その手が太ももへと滑り、さらに――
「……手を、どけろ。貴女のような方に触れられる謂れはない」
低く凍てついた声が響いた瞬間、場の空気がぴたりと凍りついた。
笑い声も消え、誰かが息を呑む音だけが聞こえる。
だが、令嬢たちは懲りない。
公爵家の名誉、そして若くして戦功を立てた英雄の肉体。すべてが“手に入れるべき獲物”としてしか見えていないのだ。
(――ふざけるな。私の家名も、功績も、身体すらも、彼女たちにとってはただの“飾り”か)
扇情的な視線、節度のない仕草。
誰かの指が再び彼の脚に、そして――下腹部に触れた瞬間、アヴェルの全身に震えが走った。
(やめろ……これ以上は……)
肌に走る寒気。ぞわりと浮かぶ鳥肌。
だが彼の肉体は、羞恥と嫌悪が限界を超え、生理的な反応を抑えきれずにいた。
何より、“絶頂の瞬間”が、目前に迫っていた。
「うぐっ…!!」
その時だった。
「……っ、ぅえ……あ、あの……っ、む、無理……!」
場違いな、くぐもった声。
そして――
「オロロロロロロ……!」
冷たい飛沫が、彼の下腹部を直撃した。
(……なっ!?)
視界が白む。
令嬢たちの悲鳴が一斉に上がり、香水と化粧の渦が一気に弾け飛んだ。誰かが靴音高く後退し、裾を翻して逃げ出す。
ざわつきの中心で、アヴェルは呆然と立ち尽くしていた。
視線を下げれば――そこにいたのは、一人の少女。
床にへたり込んだその姿は、背中まで流れるようなブロンド。露出高めのドレスはよれよれで、金色の瞳は涙目だった。
「おええええ……っ、うう、飲みすぎた……っ」
見るからに酔い潰れた様子のその令嬢――エディティは、どうやら限界を超えて、彼の目の前で盛大に吐いたのだった。
それも、よりにもよって、アヴェルの股間めがけて。
アヴェルは無意識に裾を押さえた。
(……こみ上げたのは、彼女だけじゃない……)
心の奥底で、自分の肉体が限界を迎えかけていた。
それを断ち切ってくれたのは、目の前の――この“救世主”。
顔が見られずにすんだ。
絶頂の表情を、誰にも気づかれずに済んだ。
(……助かった……)
情けない安堵感に、全身の力が抜けていく。
呼吸は荒く、視線は宙をさまよい、耳鳴りが頭の奥を打つ。
そして、なぜか一人だけ、中心に残された。
――壮絶に間抜けで、けれど奇跡的な救済者とともに。
令嬢たちは蜘蛛の子を散らすようにその場を後にし、吐瀉物の残る床と、無表情で佇む“氷の貴公子”だけが残された。
(……酔っていたとはいえ、この令嬢は――私を“救った”)
アヴェル・ディートリードは、舞踏会の中心に立ち尽くしていた。
滑稽な姿だった。だが、誰も笑う者はいなかった。むしろ、視線は逸らされ、令嬢たちは困惑の表情で小さく囁き合っている。
(……こんな場で、これ以上無様な姿を晒すわけにはいかない)
意を決し、目の前でへたり込んでいる少女に視線を落とした。
金の瞳はぼんやりと宙をさまよい、頬は熱に浮かされたように紅潮している。
ブロンドの髪が肩から零れ、露出の多いドレスが乱れているその姿は、あまりにも無防備だった。
「……全く」
低く、呆れたように息をつく。
だが、その指先はどこまでも丁寧に、彼女の背へと回されていた。
アヴェルは、エディティの体を静かに抱き上げた。
軽い。だが、なぜかその体温は、確かな質量を持って彼の腕にのしかかる。
裾を翻し、迷いなく歩き出す。
革靴が白大理石の床に打ちつけられ、鋭く音を立てた。
「アヴェル様っ!? ど、どちらへ……!」
背後から令嬢の声が追いすがる。
だが、彼は振り返らなかった。
「失礼。急患を預かっている」
冷たい声色だった。
それだけで、道を塞ごうとしていた何人かの者がたじろぎ、声を呑んだ。
その威圧感は、戦場で敵兵を蹴散らすときと何ら変わらぬものだった。
王城の廊下を進む間も、周囲の視線が刺さるように浴びせられていた。
だが、誰ひとりとして彼の前に立つことはなかった。
腕の中の令嬢――エディティは、完全に力を抜いてアヴェルに身を預けている。
その呼吸は落ち着いていて、時折、ふにゃりと小さな吐息が彼の胸元をかすめた。
(……不思議だな)
嫌悪感が、湧かない。
むしろ、この無防備で無垢な存在が、今だけは何よりも“人間らしく”感じられる。
あの毒のような夜会で、自分を正気に引き戻した――ただひとりの存在。
そのとき、影が壁際からすっと動いた。
「……リダ」
現れたのは、忠実な執事リダ。アヴェルの命を受け、常にどこかで彼を見守っている男だ。
「東の客間を。換えの服と湯を。すぐに」
命令は短く、鋭い。
リダは頷き一礼すると、一言も発さずに廊下の奥へと消えていった。
アヴェルは歩を止めなかった。
背後でまだざわめきの残る大広間。だが、それももう遠い。
(――下劣な視線に耐えるだけの夜会など、もううんざりだ)
どんなに煌びやかな仮面を被っても、中身は欲望の渦。
貴族という名の名札をぶら下げているだけの女たちが、彼の名を食い物にしようと群がる。
それが“愛”と呼ばれるのなら、そんなもの、断じて必要ない。
だが――腕の中の彼女だけは、違った。
思い出す。股間に浴びせられた、まさかの“飛沫”。
世間ならば最大の侮辱。だが、アヴェルにとってはそれが“救い”だった。
無様でも、間抜けでも、正気を保てたのだ。
(……最低の出会いだが)
彼は、そっとエディティを見下ろす。
目を閉じたその顔は、つい先ほどまで嘔吐していたとは思えぬほど安らかで、眠る幼子のようだった。
(貴女には感謝しないとな…。)
吐瀉物と共に、夜会の毒気も洗い流したかのように。
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