第8話
腹の底から出るような呼吸を整え、
拓海はゆっくりと腰を上げた。
(……立てた……ちゃんと、立てた)
皮袋の水も尽きかけ、日差しは強くなる一方。
鍛錬場の一角では、拠点の中心に向けて人の流れができていた。
「昼の準備できてるわよー」
リィナの明るい声が響く。
今日の食事は、昨日狩った肉を干したものを細かく切り、
芋のような根菜と薬草を一緒に煮込んだスープ。
塩分は控えめだが、しっかり身体に染み込む味。
拓海が木の器を手に並ぶと、
ソフィアが鍋をかき回しながらチラリと見上げる。
「お、死なずに帰ってきたか。
クレア相手に倒れて、そのまま墓掘ってやろうかと思ってたぜ」
「……あの人、加減って言葉知らないよね……」
「おう。あれが加減だ」
「……まじか……」
器に盛られたスープは熱く、香りが腹を刺激する。
一口すすった瞬間、
拓海の顔に、安堵が浮かんだ。
「……はぁ、しみる……っ」
焚き火の周りでは、
ヨミが食べながら談笑し、
ネリアは黙ってスープをすすっていた。
「どうだった、訓練」
ミルラがそっと隣に座って尋ねる。
「……もう、砂になってもいいってくらい、きつかったです」
「ふふ。なら、ちゃんと“今日”を生きてるわね」
ミルラは微笑み、
自分の器を拓海に軽くぶつけた。
「乾杯、じゃないけど。お疲れ様」
「……ありがとう、ございます」
スープの熱が、
疲れた身体の隅々にまで広がっていく。
拓海は思った。
(食える、って……こんなに、ありがたいことなんだな)
命を削って、生き延びて、
その報酬として“口にできる一杯”。
それは、どんな贅沢な料理よりも、
今の拓海にとっては価値のある“ごちそう”だった。
食事を終えた拠点は、
午後の強い日差しの中で、少しだけ緩んでいた。
焚き火の火は小さくなり、
洗った器が並ぶ桶のそばでは、
リィナとネリアが交代で水を換えていた。
「うーん……食ったら眠くなるって、ズルくない?」
「……寝ればいい」
「ネリアさん、ほんとシンプル……」
他の団員たちは思い思いに過ごしていた。
ヨミは布を敷いた上で片腕を枕にして寝転がり、
ソフィアは日陰で道具の手入れをしている。
その横ではミルラが本のような何かを読みながら微笑んでいた。
(……なんか、“日常”って感じだな)
拓海は、まだ焚き火の残り香が漂う場所に腰を下ろし、
自分の剣──刃を潰した訓練用のそれを、無意識に撫でていた。
身体はボロボロだ。
でも、不思議と心地よい。
「おい、新入り」
ふと声がして、顔を上げる。
ベルモットが枝を持ってきて、
「ほれ、こいつで地面に丸描いてみな」と言ってきた。
「……は?」
「いいから。んで、今から暇潰しな」
「わかったよ!お手柔らかに頼むよ。ルールはどんな感じだ?」
「やって行くうちに覚えれる簡単なもんさ」
地面に描いた円に石ころを並べ、
団員たちがゆるく集まり、指先で遊びを始める。
笑い声が響く。
誰かがあくびをし、誰かが寝返りを打つ。
「よーし、準備完了!
今からこいつはサフディン・ラードルだ!」
焚き火跡のそば、地面に描かれた雑な円。
その中に、石と木片が交互に並べられている。
「ルールは簡単。相手の色を挟んだら取れる。
ただし回転、裏返し、斜め攻撃もあり!」
「……斜め攻撃?」
「ほら、こうやって斜めから置いたら、角度ボーナスってことで2点!」
「それ、絶対今思いついただろ」
ベルモットはドヤ顔で石を置いた。
「うぉらっ!2点入りィ!」
「いや、今ので3個取られてるぞ。計算合ってないんじゃないか?」
「なにっ……!?う、うるせぇ!勢いが大事なんだよ!」
拓海は一瞬ルールに戸惑いながらも、
盤を見て静かに指先で石を動かした。
「ふむ……じゃあ、ここに置いて、これとこれを取る。
これで、そっちの列は全部こっちの色だな」
「うおっ!?なんか一気に取られたぞ!?」
「盤面ってのはな、無理に攻めると一気に崩れるんだ。
力押しだけじゃ駄目なんだよ、こういうのは」
「くっそぉぉ……じゃあ角に置くしかねぇな!“バーニング・コーナーアタック”!」
「……ネーミングで勝負をカバーするなよ。
それ、明らかに負け筋じゃないか?」
盤上はみるみるうちに拓海の色に染まっていく。
「お前、頭使う系は得意なんだな」
ヨミが腕を組んで眺めていた。
「戦術とか思考の整理は慣れてる。
学部が歴史だったからな。こういうのは好きだ」
「ベルモット、ボロ負けだね」
リィナが口元を押さえて笑っている。
「くっそぉぉぉ!負けたあああああ!!」
ベルモットは大の字になって地面に転がった。
「──よし、勝者には“コケモモ干し実一個”進呈!」
ソフィアがぼそっと言いながら、
腰袋から赤い実を投げてよこした。
「えっ、景品それだけか?」
「超貴重だぞ、それ。ちゃんと味わえよ」
拓海は赤い実を受け取りながら、思わず肩をすくめた。
「──拓海」
静かな声が、焚き火の輪の後ろからかかった。
振り向けば、そこにはクレアが立っていた。
「午後の訓練だ。ついてこい」
「……了解です」
立ち上がった拓海は、器を洗い場に置き、
団員たちの視線を背中に受けながら、クレアの後ろを黙ってついていく。
だが、向かった先は鍛錬場ではなかった。
拠点の外れ。
石を並べただけの囲いと、簡易の布が張られた日陰。
クレアはそこに腰を下ろし、手元にあった細い枝で砂をなぞり始める。
「……午後はまず、座学から始める」
「へぇ……座って教えてくださるなんて、意外ですね」
「剣の振り方より前に、“構え”を教える。
“構え”は身体じゃなく、意識の置き所だ」
拓海は対面に腰を下ろし、
静かに姿勢を整えた。
「剣士は、剣を振るだけではない。
戦場に立った時、何が見えているか。
敵の足、味方の配置、風の流れ、地面の傾き──
それらを“自分の一手”に繋げられるかどうか」
砂に描かれるのは、簡単な陣形図。
敵と味方を示す印、射線、回り込みの線──
「力が劣っている時に勝てるのは、戦場の“空気”を読める者だ。
それは“歴史”でも証明されている」
「……たとえば、どんな事例があるんですか?」
「“峠の戦い”。三倍の兵を迎え撃った小国の軍。
主将は兵を“見えない場所”に配置した。
敵は見える軍だけを本体と思い込んだ。結果は──」
「奇襲……ですね。視野を広く持っていた側が勝ったと」
「そうだ。
そしてそれは、“一対一”でも変わらない。
視野の広さは、生き残る確率に直結する」
描かれた図が一度消され、また別の線が描かれる。
「……なるほど。
クレアさんの剣が隙のないのは、こういう“読み”まで含めてのものなんですね」
「“剣士”は、“読み手”でもある。
感情で振るう剣は、命を守らない」
拓海は静かにうなずき、
自分でも砂の上に簡単な図を描きはじめた。
「では──相手に“読まれる前提”でこちらが先に布石を打つ、
それもまた“勝つための一手”ということですよね?」
クレアの目が細くなり、少しだけ頷く。
「……そうだ。
それが、“剣士の戦い”だ」
日陰の座学が終わると、クレアは静かに立ち上がった。
「……では、応用訓練。実践に近い“読み合い”をやる」
「了解です」
「内容は単純だ。
互いに一度だけ、剣を振る。
その一手に、すべてを懸けろ」
拓海は少し驚いたように眉を動かした。
「……初撃だけ、ですか?」
「そうだ。
剣の一手は、命の一手。
どちらが先に読んだか、感じたか、見切ったか──それだけだ」
広場の中央。
見守る団員はまだ少ない。だが空気はピンと張り詰めていた。
二人が向かい合い、
訓練用の剣を構える。
「始め」
クレアの声が静かに落ちる。
──動かない。
風が、布を揺らす音。
遠くの獣の鳴き声。
その中で、ただただ視線が交差する。
(……間合いは、ほぼ同じ。
クレアさんは踏み込んでこない……なら、誘いだ)
拓海はわざと重心を前に置いた。
剣先がわずかに揺れ、踏み込みの気配を演出する。
だが──クレアは動かない。
(……効かない、か。読まれてる……!)
今度は逆に、構えをゆるめる。
反応を引き出すため、あえて“無防備”を装う。
──その瞬間だった。
クレアの足が砂をかすめ、
鋭く一閃──訓練剣が風を切る音が、拓海の耳を貫いた。
「っ……!」
避けきれないと判断し、剣で受けに入る──が、間に合わない。
剣が肩に当たり、鈍い衝撃が走る。
「……ッぐ……」
「──そこまで」
クレアは剣を下ろし、いつもの無表情のまま言った。
「読みは、見えている。だが、動きが伴っていない」
「……はい、仰る通りです」
「お前の剣は、“頭で振ってる”。
だが剣は“筋肉”と“勘”と、“覚悟”で振るものだ」
拓海は悔しげに息をつきながらも、
自分でも気づいていた。
(そうだ……わかってるつもりだった。
でも“勝とうとする一手”には、全然なってなかった)
「……もう一度、お願いします」
「いいだろう。
今の“気づき”があったなら、次は少し違うはずだ」
二人は、再び構え直す。
剣を構え直す。
拓海の目は、先ほどより鋭かった。
肩の痛みが残るが、それも意識の奥で引き締めに変わっている。
(さっきは“勝ちにいこう”として、結果全部バレてた。
なら今回は──“当てよう”じゃない。“感じる”んだ)
「始め」
クレアの声と共に、
再び静寂が戻る。
風。
鳥の声。
誰かが遠くで刃物を研ぐ音。
二人は一歩も動かない。
拓海は足の指で砂を感じ、
クレアのわずかな呼吸の変化を待つ。
一瞬──わずかに左足が動いたか?
(今──!)
踏み込み。
剣を低く構え、一気に斜めから切り上げる!
──が、
「……浅い」
クレアの一言と共に、
その刃の外側を回るように──視界が、翻った。
背後に。
クレアがいた。
次の瞬間、腰のあたりを木剣の柄で押し払われ、
拓海の身体がぐらりと傾き、地面に膝をついた。
「ぐっ……」
「──そこまで」
振り返ったクレアは、剣を下ろしながら言う。
「“反応”は早くなった。
だが、剣の“芯”がまだない」
「……芯?」
「“勝てそうだから振る”のではなく、
“勝つつもりで振る”。
どんな相手にも、“一撃で殺すつもりで振る”剣じゃなきゃ、届かない」
拓海は唇を噛んで、うなずいた。
「……分かってるつもりでしたけど……身体が動かない。
所詮は頭でっかちですね、俺は」
「剣は、今日明日で身につくものではない。
だが、“折れずに立った”だけでも、及第点だ」
背筋が伸びる。
クレアは初めて、そんな言葉を投げてきた。
「……次は、当ててみせます」
拓海は剣を握り直した。
まだ遠い。
でも、ほんの少しだけ──“向かうべき場所”が見えた気がした。
ー ー ー
「──……今日の稽古は、ここまでだ」
クレアの声が短く響き、
砂煙を残して去っていく。
拓海はその場に腰を下ろし、地面に手をついて呼吸を整えていた。
(やっぱり……全然通用しない……)
剣を振る感覚、立ち続ける足の重さ。
身体の芯がじわじわと軋んでいく。
そのとき、
風に揺れる衣の音と共に、ふわりと優しい声が落ちてきた。
「──頑張ってるのね、拓海くん」
「……ミルラさん?」
振り返ると、ミルラが穏やかな笑みで立っていた。
膝を折って拓海の隣に腰を下ろす。
「稽古、お疲れさま。クレアの相手、簡単じゃないでしょう?」
「……はい、まったく」
苦笑しながら頷くと、
ミルラは静かにその手を拓海の胸元──心臓の辺りにそっと添えた。
「少し、魔力を感じてみてもいいかしら?」
「……魔力?」
「ええ。この世界に来た人には、稀に“魔法の素質”を持つ人がいるの。
ここの空気に馴染むと、わずかでも反応があるものだけど……」
拓海は一瞬、戸惑いながらも頷いた。
(魔法……か。
正直、ちょっとだけ期待してる自分がいるのが情けないな)
ミルラが瞳を閉じ、
指先から淡い光が滲み出る。
その光は、
拓海の胸に触れ──そして。
……何も起こらなかった。
「……」
「……ああ、なるほど。全然ダメなんですね、俺」
拓海は照れ隠しのように笑った。
けれど、どこかその目には虚無感が滲んでいる。
ミルラは目を開け、微笑んだままそっと手を引いた。
「……ええ。あなたの中には、“動き”がないわ」
「正真正銘のノーマルってやつか。
剣もダメ、魔法もダメ……本格的に詰んでる気がしてきたな」
「そう思う?」
「……思いますね、正直」
ミルラは首を横に振った。
「でも、“火が灯らない人”は、別の灯りを作ることができるの。
それを見つけるのが、あなたの旅なんじゃないかしら?」
拓海はその言葉に、少しだけ目を見開いた。
「……慰め上手ですね、ミルラさんは」
「ふふ。そうでもないわよ?」
柔らかな笑いと、少しの沈黙。
ー ー ー
訓練場から戻った拓海は、
まだ誰も戻っていない焚き火の跡に、ひとり腰を下ろしていた。
焚き火の灰は白く、
風に吹かれて細かく舞っていた。
(……なんもねぇな)
魔法もない。剣の才能もない。
でも、生きていく必要がある。
……いや、それだけじゃない。生き延びるだけでなく、“積み上げる”必要がある。
ふと、遠い記憶が脳裏に浮かぶ。
──モンゴル帝国。
騎馬を駆り、天幕を運び、広大な世界を征服した彼らも、
最終的には──都市を、城を、拠点を必要とした。
(放浪生活は確かに柔軟だ。
でも……いつか“疲弊”がくる。
雨、病、襲撃、供給不足。
そのすべてを“移動”で乗り切れるのは、ほんの一時だ)
今の彼ら──ウィンストン盗賊団は、遊牧の民のように拠点を渡り歩く。
けれど……。
「……それだけじゃ、いずれ限界がくるかもしれないな」
ポツリと、誰にともなく呟く。
移動の自由。柔軟性。奇襲性。
確かにそれらはこの“カレナ=ヴェイル”で生き抜くための知恵だ。
だが同時に、脆さも孕んでいる。
(なら──いずれ“拠点”が必要だ)
思考が明確な構想へと形を取っていく。
「まずは……地形だな。
天然の防壁がある場所、崩れかけの都市遺構、もしくは地下施設……」
「水源が確保できること。
敵が攻めにくく、こちらからは見渡せる構造。
そして、物資を集め、保存できる広さ──」
“砦”でもいい。
だが、いずれは“街”へ。
そういう場所があれば──
ウィンストンたちの暮らしは安定し、
他の流刑者たちも“戻ってくる場所”を得られる。
「それが……“生き延びる”ってことの、先だよな」
剣でも、魔法でもない。
だけど、こういう構想力なら──
少しはこの世界で、誰かの力になれるかもしれない。
焚き火の場所から立ち上がった拓海は、
足元に残る灰を踏みしめながら、ゆっくりと団長のテントへ向かった。
“提案”なんて大層なものじゃない。
ただの思いつきに過ぎないかもしれない。
──けど、もし誰かが言わなきゃ、
このまま彼女たちは、どこまでも移動し続けるだけかもしれない。
風に揺れる布をかき分けると、
その向こうにはウィンストンがいた。
テントの脇、簡素なテーブルの上には広げられた地図と数枚の紙片。
団員の1人──斥候隊の女性が、短く言葉を交わしていた。
「西側、森沿いに動く“黒装束の集団”を確認。
追跡は困難、移動速度は速く、規模は不明」
「……追うな。必要なのは、動きの記録と方向だけでいい。
こっちは消耗できない。今は守りを固める」
その声は静かで鋭く、そして確かだった。
斥候が頷き、一礼して去ると──
ウィンストンはふと顔を上げ、テントの出入口に気配を感じたように言った。
「……何か用か? 拓海」
「……すみません、少しだけ。邪魔だったなら、また今度でも」
「聞くだけは聞く。話せ」
焚き火の煙が微かに漂ってくる中、
拓海は数歩だけ近づき、手を後ろに組んだまま静かに言葉を探した。
「……この世界に来て、いろんな化け物がいて、移動が必要だってのは、すごくよくわかってます。
でも、ずっとこのまま放浪してるのは、どこかで限界が来る気がするんです」
ウィンストンは黙って地図を見たまま、耳を傾けている。
「……だから。いずれ、“拠点”が必要なんじゃないかって。
できるだけ守れて、水があって、住める場所……将来的には“街”になり得るような。
……そんな土地を、探しておくべきかもしれません」
風が、テントの中を通り抜ける。
ウィンストンはゆっくりと視線を上げ、拓海を見た。
「……その話、地図の上でしてみるか?」
「……え?」
「今は話の途中だった。次の偵察指示を出したら、時間を取る。
それまでに“お前の考え”を、まとめておけ。言葉じゃなく、“形”でな」
言葉に重みはある。
でも、構想を“戦略”として認めさせるには──証明が要る。
「……はい。ありがとうございます」
ウィンストンに一礼をしてテントから出た拓海は、
張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。
(言えた……思ってたより、ちゃんと聞いてくれたな)
頭の中では早くも、地形や水脈、風向き、古代遺構の記憶が巡っていた。
次に話す時までに、“形”にして見せなきゃならない。
そんなふうに思っていたところに──
「──おい、ちょうどいいところに出てきたな。拓海!」
「ん?」
振り向けば、ソフィアが破れた荷袋を肩に担いで立っていた。
「お前、細かい作業得意だったろ? 針使えるやつが他にいなくてな」
「まあ……針と糸なら任せてくれ。
今んとこ、それが俺の一番の武器だからな」
ソフィアはニヤッと笑って、
「それならこれも」と、さらに破れたマントやほつれた服まで抱えてくる。
「うわ……盛りだくさんだな、こりゃ」
「ついでにターバンのほつれも頼むわ。あたし不器用でよ──」
別の団員も加わり、
拓海の腕にはいつの間にか山ほどの布製品が積まれていた。
でも、その顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「いいよ。今はこれが、俺にできる“戦い”だ」
腰の道具袋から裁縫道具を取り出し、
いつものように静かな手つきで糸を通す。
その姿は、誰よりも“確か”に、
この拠点の一員として動いていた。
焚き火の赤い残光が揺れていた。
炎は小さく、けれど絶えることなく、静かに布と針を照らしている。
そのそばで、拓海は黙々と手を動かしていた。
「……っと。縫い直すだけじゃつまらないよな」
裂けたターバンの縁をまじまじと見つめ、
道具袋から取り出したのは、わずかに色味の違う糸。
「こっちの方が、光に当たったときちょっとだけ映えるはず……」
白と紺の中間、ほとんど灰色に見える糸。
だが、それは布の織りと角度に応じて、やわらかな青が浮かび上がる。
さりげなく、けれど確かに──“誰かのもの”になるように。
他にも、
■ ソフィアの荷袋の補強には、釘抜きのマークに似せた小さなステッチ
■ 別の団員のマントには、縁の刺繍に民族調の模様をひとつだけ忍ばせて
■ 修繕のついでに、ほどけていたベルト穴の周囲を革風に縫い締めて仕上げる
「……なんだよコレ、返すの惜しくなるじゃねぇか」
作業を覗きに来たソフィアが、
目を細めながら手にしたマントを軽くひらりと揺らす。
「この縁のやつ、何か意味あんのか?」
「いや、ない。ただ……その人に似合いそうだと思っただけだ」
「へぇ……気の利いた新入りってわけか」
照れ隠しに肩をすくめた拓海の手元では、
次の布地がすでに広げられていた。
誰にも言われてない。
誰にも強制されてない。
けれど、自分が“ここで何をできるか”を考えたら──
自然と、この針にたどり着いた。
焚き火のそばで、拓海の手は止まらなかった。
火の明かりは少しずつ赤みを深め、
辺りがゆるやかに夜の気配を帯びはじめた頃──
「……ねぇ、拓海くん」
おずおずと声をかけてきたのは、リィナだった。
彼女はいつものように布のバンダナを頭に巻き、
まるで“手伝わせてくれませんか”と顔に書いてあるような目で覗き込んでいた。
「その……私もやってみたいなって。お裁縫」
「え? ああ、もちろん。
……でも、結構地味で地道な作業だぞ?」
「うん、それでもいい。なんか楽しそうだから」
素直な言葉に、拓海は自然と笑みを浮かべた。
「じゃあ、これやってみるか。縫い目がほどけかけてるポケットの補修。
まずは針に糸を通して……あ、こっち貸して」
リィナは目を細めて針穴を見つめるけど──当然ながら一発で通らない。
「うぅ、ちっちゃいなあ……」
「焦らなくていい。こういうのは、息止めてやると成功率上がるんだ。ほら──」
拓海が手を添えて、糸を通して見せる。
「わぁ……すごい。魔法みたい」
「いや、全然魔法じゃないけどな。
何度もやってりゃ、勝手に手が覚えるだけだ」
針を受け取ったリィナは、慎重に布に当てながら縫い始めようとする。──が、
「……あれっ?」
「ん、針が逆さだ。先っぽじゃなくて、糸のついてる方から入れてる」
「えぇっ!? ……わっ、指っ!」
「待て、危ない──」
チクリ。
「っいたぁ……」
リィナの指先に、うっすら赤い点がにじんだ。
「大丈夫か? ほら、見せて」
拓海は優しく彼女の小さな手を取り、
傷を確かめながら小さな布で押さえる。
「ごめん……足引っ張っちゃったね」
「何言ってんだ。最初はみんなそんかものだよ」
「……ほんとに?」
クスッと笑ったリィナが、
指をおさえたままうなずいた。
「じゃあ、また練習……してもいい?」
「ああ。いつでも付き合うよ」
火の光が、二人の手元をあたたかく照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます