第1話

朝が来たとは言っても、空は相変わらず灰色と紫が混じったような色をしている。

目を凝らしてやっと明るさの違いが分かる程度で、気温も、空気の重さも、夜と大して変わらない。


──それでも、“何か”が変わった。


風が止んで、咆哮が遠のいた。

代わりに感じるのは、腹の底からの空虚。


腹が減った。

ただ、それだけのことなのに、命に関わる。

ここはそういう場所だ。


「……最低だな、俺……」


目の前に、ひとつの“それ”がある。


夜明け前、あの男たちが引きずっていた女の死体。

服は裂かれ、血と泥にまみれていた。

目は開いたまま。虚ろに空を見つめていた。


顔は綺麗だった、と思った。

でも、それは“だから余計に残酷”だとも思えた。


女の名前も知らない。何をしていたのかもわからない。

けれど、もう動かない。何も言わない。


──生きるために、俺はそのポケットに手を入れた。


「……ごめん」


自分の声が、ひどく軽かった。

風に流されて、誰にも届かない。

たとえ彼女に聞こえていたとして、赦されるとは思えない。


ポケットの中から、何かが出てきた。


・小さな布の包み。干からびたパンのようなもの。

・折り畳まれた羊皮紙の地図。文字は読めない。

・赤茶けた金属片。コインか、何かの道具か。

・そして、血に濡れたペンダント。


俺はパンだけ取って、残りはそのまま元に戻した。


「ありがとう……な……」


立ち上がって、ペンダントの視線から離れるようにして背を向ける。

そのまま口にパンを運ぶ。


固い。臭い。

でも、胃が熱を取り戻していくのがわかった。


──それは、救いじゃない。

ただ、現実だった。


生きるためには、これからもっと“やらなきゃいけないこと”がある。

誰にも赦されなくても。誰も見ていなくても。


「これは……冒涜じゃない……生きるってことだ」


誰に言い聞かせるでもなく、俺はそう呟いた。


──そして、歩き出した。


歩き出してすぐに、崩れかけた歩道橋の下をくぐった。

その先にあったのは、巨大な廃墟だった。

ビル。複数の棟。どれも数十階建ての高層建築……だったはずのもの。


今は、骨格だけが残っていた。


外壁は焦げ、鉄骨が歪み、窓ガラスは砕け、床には火薬のような臭いが染みついていた。

爆破か火災か、あるいは──何か、別のモノに踏み潰されたような。


「……これ、どうやって壊れたんだよ……」


思わず呟く。

だが誰も答えない。


慎重に瓦礫をまたぎながら、ビルのひとつに足を踏み入れた。

足元には折れた家具、焼けたコード、剥がれたパネル。

だが、妙に生活の“匂い”だけが残っている。


食堂跡のような広間には、壊れた調理器具と倒れたテーブル。

壁には、誰かが手で描いた落書き。

【俺たちは生きていた】【希望はあった】【あいつが来る前は】……そんな文字が掠れて残っていた。


「……“あいつ”って、誰だよ」


戦争か。

怪獣か。

魔法か。

思考がぐるぐると巡るが、どれにも根拠はない。


ただ、わかるのはひとつ。


ここには“人間がいた”ということ。

だが、それはもう……いない、ということ。


「考えたくもねぇな」


独り言が、かすかに反響する。

耳に返ってきた自分の声が、どこか他人のもののように思えた。


奥の部屋に入る。

棚が倒れ、積み上げられた木箱の中には、干からびた物資が少し残っていた。


ビニール袋に入った古い缶詰。中身は読めない。

金属製の水筒。水は……蒸発している。


「何十年、いや……もっと前か?」


俺の頭が勝手に“歴史学”で分析しようとする。

建築様式、素材、老朽具合、火災跡……。


いや、やめよう。

そういうの、今はいい。


ここは歴史じゃない。教科書じゃない。

俺が今、現に立っている場所だ。


「終わってんな、マジで……」


その言葉は、壁にぶつかってどこかへ消えていった。


パイプシャフトの脇を抜けて、階段室に差しかかろうとしたときだった。

床の隙間から、かすかな音が聞こえた。


「で? 本当にこのエリアにいたのかよ」

「タグの信号はここで消えた。痕跡もある」

「適応タイプか……逃げ足は速そうだな」


声。複数。

低く、落ち着いた口調だが、どこか不穏な響きをまとっていた。


すぐにしゃがみ込み、階段脇の崩れた金属棚へ身を滑り込ませる。

慎重に視線を向けると、フロアの奥から3人の男が現れた。


スーツ姿。

黒いジャケットに防弾ベスト。ホルスターには拳銃。

軍ではない。警察でもない。

だが、動きには迷いがない。訓練されている。


──ただし、“プロ”ではない。


呼吸の荒さ、会話の砕けた調子。

その違和感に気づいたとき、俺はようやく察した。


こいつら──俺と同じ、“流刑者”だ。


「こんな格好してても、結局は同じ穴の狢かよ……」


つぶやいた声は胸の奥に沈んだ。

装備の揃った流刑者。

もしかしたら、別世界の戦争帰りかもしれない。

流された先でも組織を作って、縄張りを広げてるってことか。


「他のやつ見つけたらどうする? 話通じるタイプか?」

「関係ない。殺す。んで奪う。」


──やっぱり、そういう連中だった。


“殺す理由”なんて必要ない。

この世界では、“使えるかどうか”が価値なんだ。


拓海は息を殺したまま、棚の奥で震える手を押さえつけた。

彼らの足音が、通路を渡っていく。

銃声はなかった。ただ、ゆっくりと、確実に“獲物”を探していた。


この世界は、終わっている。


だが、それでも“生き延びなければならない”。


そして、今はただ──見つからないことを祈るしかなかった。


金属棚の奥で息を殺し、俺はずっと耳を澄ませていた。

男たちの足音は遠ざかった──ような気がする。

でも、この耳鳴りのような緊張の中で、本当にそうなのか確信が持てなかった。


呼吸を整える。

心臓の鼓動が、やけにうるさく響く。

腕の中にある鉄パイプは汗で滑りそうになっていた。


──10時42分。


ようやく、足音が完全に聞こえなくなった。

それでも5分はその場を動けなかった。

ほんの5分が、半日にも感じた。


「……行くしかねぇな」


小声で呟き、棚の陰から身を起こす。

ゆっくりと、物音を立てずに。

ビルの廊下は静かすぎるほど静かで、逆に一つの足音さえ反響する。


通路の端には、さっきのスーツ姿の連中が通った痕跡が残っていた。

焼けた紙片。踏みつけられた缶。

無線の一部か、プラスチックの破片も落ちていた。


それを避けながら、崩れた床の隙間を通って階段へ向かう。


──10時49分。


「階段……上は無理か。逆に見晴らしが良すぎる」


一段上がったところで、すぐに引き返す。

瓦礫と血痕。銃痕もあった。


目の前に広がるのは、誰かが“処理”されたあと。


震えそうになる足を無理やり動かして、今度は下階へ。

コンクリの階段を慎重に降りる。


──10時53分。


地下フロアに降り立った瞬間、空気の匂いが変わった。

埃と錆、そして腐臭。


「下水……か?」


足元に薄く水が滲んでいる。

排水路のようなパイプが走っていて、奥へ奥へと続いている。


けど──ここなら、あの連中には見つからない。


「ここしかねぇな」


パイプの上に足をかけ、慎重に進む。

数メートルごとに手を壁について重心を支える。

暗い。湿っている。滑る。


でも、命がある。


──10時59分。


「……もう一時間くらい経った気分なんだけどな」


呟いた言葉は、反響せずに湿った空気に吸い込まれた。


このたった20分ほどが、永遠みたいだった。

一歩間違えれば死ぬ。誰かに見つかれば終わり。

だからこそ、慎重に。少しずつでも、確実に進む。


──11時03分。


ようやく、地下パイプの終端に出る。

錆びたハッチ。中は──開いていた。


隙間から外の光がうっすら見える。

灰色の空。遠くで獣の鳴き声。人の悲鳴のような音。


「……まだ、生きてる」


誰に向けたわけでもなく、そう呟いて、俺はハッチをくぐった。


外に出た。

この区域から、抜け出した。

だけど──“安全”なんて、どこにもない。


それでも、この20分が俺を“鍛えた”気がした。

命を、噛みしめながら進むってことが、どういうことか。


鉄パイプを握り直す。


この先に何があるかなんて、知らない。

でも、少なくとも一つだけ、わかってる。


「絶対に……見つかるわけにはいけねぇ」


そう誓って、俺は歩き出した。


ハッチを抜けた先は、かつて連絡通路だったような金属のスロープだった。

折れた手すり、剥がれかけた壁板を頼りに、少しずつ登る。


通路は傾いていた。

上階に繋がる非常階段を見つけるまでに、さらに数分を要した。

だが、焦らず行く。

この一歩が命取りになる。それは、もう嫌というほど思い知った。


──11時41分。


「……っ、はぁ……はっ……」


ようやく辿り着いたのは、崩れかけた高層ビルの最上階。

吹き抜けになったフロアの隅、ガラスの抜けた窓際に立つ。


そして、俺は──見た。


目の前に広がる、この世界の輪郭を。


ビル群。

数えきれないほどの建造物が、無数に折れ、曲がり、崩れたまま放置されている。

そのすべてが黒と灰に染まり、ところどころから黒煙が上がっていた。


その外側に広がっていたのは、全く違う景色だった。


平原。

森林。

断崖のような地形。

遠くには巨大な石橋か、あるいは“世界樹”のような何かも見えた。


空は、相変わらず濁った紫だ。

だが、明らかに“自然”が広がっている。


「……ビル群だけが、異常なんだな」


気づいた。


ここは、“放り込まれる場所”だ。

新米流刑者を、問答無用で投げ込む。

物資もなし、知識もなし、言語も通じず、地形も知らない。

そして、待っているのは虫、化け物、武装した連中。


「この都市自体が……試験場みたいなもんか」


ふと、目の前の空を何かが横切った。

鳥、ではない。

翼のような器官を持った“何か”が空を旋回していた。


「あの森のほうが……まだ生き残る可能性、あるかもな」


拓海はゆっくりと腰を下ろした。

背後では、瓦礫が軋む音が微かに響く。

だが、それでも──彼の中には、初めて“方角”という概念が浮かんだ。


今までは逃げるしかなかった。

でも今は、“進む”ことができる。


「このビルから出る。次は……森だ」


決意はまだ固まりきっていなかった。

けれど、その一歩目を踏み出す準備は、もうできていた。


ビルの屋上から見えた景色は、希望だった。

けれど、その希望へ向かうためには──地獄を抜けねばならない。


俺は、さっき登ってきた非常階段の位置を思い出しながら、最上階の崩れた床を慎重に歩いた。

突風が吹けば転落するほどの隙間。足元は、常に不安定だった。


鉄骨の階段を見つけたのは、11時52分。

慎重に、足をかける。


──そのときだった。


「オォ……オオオオアアアアアアアアアアッ!!!!」


階下から、喉が裂けるような叫び声が響いた。


言葉じゃなかった。

怒鳴り声でもなかった。

“叫び”そのものだった。


「っ……誰だ……?」


咄嗟に階段から引き返し、壁の裏へ身を隠す。


数秒後、鉄の軋む音と共に、数人の“人間”が現れた。


いや、人間だった“何か”たち。


服は破れ、顔は泥と血で汚れていた。

その目は焦点が合っておらず、瞳孔は開ききっている。

手には鉄棒や瓦礫を握り、口からは唾液を垂らしていた。


「うあああああアアアアアアアッ!!!」

「オレハオレハオレハオレハオレハアアアアアアア!!!」

「モドセモドセモドセモドセモドセモドセ!!!」


意味がわからない。

でも、その叫びには、はっきりと“敵意”が込められていた。


正気じゃない。


そう確信できた。


目の前で、ひとりの男が壁に頭を打ちつけている。

笑っていた。

それを見ていたもうひとりも、喉を引き裂くように笑い返した。


こいつらは……流刑者だ。

でももう、“人”じゃない。


食われる。

殺される。

何をされるか、想像もつかない。


──俺は考えるよりも先に動いていた。


別ルート。非常用の滑り棒、外壁のつた。

崩れかけた階段の裏手にある、配管の間。


「落ちたら死ぬぞ……でも、こいつらに捕まるよりは……!」


心臓が喉から飛び出そうだった。

手のひらは汗と埃で滑る。

足を滑らせれば地面へ一直線だ。


でも、俺は“生きたい”。


「ッ……行くしか……ねえ!!」


金属の配管は、ビルの外壁を伝って斜め下へ伸びていた。

外気に晒され、錆びつき、ところどころでヒビも入っている。

けど──それでも、これが“唯一の逃げ道”だった。


足元からは、鉄骨を蹴る音が聞こえる。

「オオアアアア!!」と絶叫する奴らの声が迫ってくる。


背後を振り向く暇はない。


俺は、配管に飛びついた。


「っ……ぉおおおおおおっ!!!」


勢いで滑る。

金属が手のひらを焼く。

汗と埃でグリップが効かない。


ゴン、と脇腹がどこかにぶつかった。

バランスを崩し、片手が外れる。


「くそっ……!!」


右手で再び掴み直す。

滑り、滑り、足を引っかけて必死に減速しようとする。

が──ブーツが鉄と擦れて、熱と痛みが走る。


風が、唸るように耳を掠めていく。

高所特有の、重力の引き裂くような恐怖。


「こんなの……正気の沙汰じゃねぇ……!」


次の瞬間──


「ガァアアアアア!!!」

上から奴の叫び声が、頭上から降ってきた。


見れば、あの狂った男のひとりが、俺の真上から身を投げていた。


「来んなッ!!」


咄嗟に配管を蹴って、横の窓のフレームに身体を滑らせた。

ガラスは既に砕けている。鉄枠が、身体を受け止める。


「がはっ……!」


胸を打った。

息が詰まる。

けど、落ちてない。生きてる。


狂人は俺の横を通り過ぎ、地面へ叩きつけられた。


鈍く、嫌な音がした。


「……くそ……マジで、死ぬとこだった……!」


肩で息をしながら、手すりの上に身体を起こす。

その下、あと2階分の高さ。


──降りる。


痛む腕をかばいながら、俺は最後の一段を飛び越えた。


足を打った。

膝を擦った。

だが、立てる。


「……俺、生きてる……!」


背後から、また“叫び”が聞こえた。

だけど、もうあの階にはいない。


地面に立つ。

俺の足で。


ボロボロの足で地面を蹴りながら、廃ビルのエリアを抜ける。

ようやく、瓦礫の隙間から視界が開けた。


前方には、朽ちたフェンスとコンクリ壁の裂け目。

その向こうには草が生えていた。土の匂いがする。

──あの森が、近い。


「よっしゃ……もうすぐ……」


その瞬間だった。


「そこの坊や、動くんじゃねえよ」


ぴたりと足が止まる。

低く、通る声。

背中に冷たい感覚が走る。


振り向く。


そこにいたのは、“化け物”みたいな女だった。


身長は……ゆうに180センチはある。

全身を包むタンクトップとミリタリーパンツ、その上からスチールプレートを継ぎ接ぎしたような即席のアーマー。

腕は発達した筋肉で盛り上がっている。

腰にはナイフと鉄球のついた鎖。背中には斧。

顔は焼けた褐色、短い髪、片目に傷跡。


「……え、なに……?」


「動くなって言ってんだよ。ほら、手ぇ挙げな。ついでに、持ち物全部見せな」


片眉を上げながら、彼女は言った。


「有り金全部出しな。ここじゃそれが“通行料”ってわけ」


ゆっくりと近づいてくる。

手には何も持っていないが、背負った斧の存在感だけで十分だった。


「殺しはしないよ。あたし、そーいうの趣味じゃないんでね。けど、タダで通すほど慈悲深くもないんだわ」


──完全に、食物連鎖の上位者。


「……流刑者、だよな……?」


「おうよ。あたしも自分の世界から放り出されたクチさ。まあ、そこそこ生きてきたから、この辺じゃちょいと顔が利く」


にや、と笑った。


「さて坊や、交渉の時間だ。命、物資、情報──何を渡せば、通してやろうか?」


「……いや、待って。ホントに何も持ってないんだって」


俺は両手をゆっくり挙げながら、一歩も動かずに言った。


「たった一つの干しパンだって、今朝……死体から取ったやつだ」

「ある意味、物資の“仕入れ”は命なんだ。俺の……じゃないけど」


女は片眉を跳ね上げた。


「へぇ。死体漁りが言い訳に使えるほど、この世界に染まりつつあるってか?」


「違ぇって……! ……違くはないけど、まだ始まったばっかだ。流されたばかりなんだよ、俺は……!」


この女は、殺気と理性が同居してる。

だからこそ、通じる。


「俺がここで死んでも、あんたらの利益にはならないだろ? 生かしておけば、いつか“仕入れ先”になるかもしれない」


「……口は立つじゃねえか、坊や」


彼女が少しだけ肩の力を抜いた──そのとき。


「ヨミ、また強盗? やれやれ、そんなに怖がらせたら可哀想よ」


後方から、別の声がした。


柔らかく、落ち着いた女の声。


俺が反射的に振り返ると、そこにはまたしても“大きな女”が立っていた。

こっちは1.9メートルはある。

長い黒髪を束ね、薄い布を巻いた上着に、民族調の装飾をつけた服。


だけどその体格は、完全に“戦士”。


「……誰?」


俺が呆然と訊ねると、彼女はにこりと笑った。


「私はミルラ。ヨミの相棒よ。あんまり怖がらなくていいわ」


ヨミ、と呼ばれた最初の女が肩をすくめた。


「チッ、またおせっかい焼きに来たのかよ」


「あなた、初対面の人間をすぐ脅す癖、ほんとやめたほうがいいってば。

 でも……この子、目がいいわね。まだ潰れてない」


ミルラは俺に近づき、目の高さを覗き込む。


「……ふうん。嘘は言ってない。ね、ヨミ? 命までは取らなくていいでしょ?」


ヨミは「チッ」と舌打ちしたが、背負った斧を外す気配はない。


「ま、ミルラが言うなら今回は見逃すか。いい目してるしな、坊や」


「ありがと……ございます」


「ただし、次に会ったとき“もっと良い話”を持ってこいよ。

 俺と話すってのは、そういう意味だ」


笑うと、ヨミは足元の瓦礫を踏みしめながら森の方向へ去っていく。

ミルラは俺の肩にそっと手を置いた。


「彼女、悪い子じゃないの。ちょっと荒っぽいだけ。

 あなた、ちゃんと生き残って。また会いましょう?」


そう言って、ミルラも去っていった。


俺はその場に崩れ落ちるように、座り込んだ。


「なんなんだよ……この世界……」


だけど、あの二人は──どこか、“こっち側”の人間だった。


俺が、まだ“人間”のままでいるための、ヒントかもしれなかった。


ヨミとミルラが森の方角へ去っていくのを見送ったあと、

俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。


全身が重い。疲労で膝が笑ってる。

腕には擦り傷。喉は乾いて、心臓はまだ跳ねてる。


──それでも。


このまま“ひとり”で進むのは、ヤバい。


ビル群で死にかけた。

狂人に襲われ、虫に喰われそうになって、スーツの武装集団にも見つかりかけた。


次はもう、運じゃ逃げ切れない。


「……待ってくれ……!」


喉が痛む。声が出にくい。

それでも、叫んだ。


「待ってくれ、頼む、ひとりにしないでくれッ!!」


言葉が自分でも情けなくて、歯を食いしばる。


だけど──走った。


重たい足を動かして、瓦礫を飛び越え、森の入り口へと。


前方に、背を向けたまま歩く二人の巨体。

その影が、どんどん遠ざかる。


「ミルラ! ヨミって言ったよな……!」


叫びながら、俺は転びそうになる足を無理やり支えた。


「俺、もう……誰にも頼らないって決めたつもりだったんだ……でも……!」


ヨミが、ちらりと振り返った。


その顔は、呆れと、わずかな興味を混ぜたような表情だった。


ミルラは振り返らずに言った。


「あなた、さっきは“自分の命の価値”を語ってたわね」

「……だったら、それを証明してよ」


ヨミが立ち止まり、腕を組んだ。


「ほう。自分の足で追いついてきた奴を、無下にするほど冷たくもねぇよ、あたしは」


「ただし、ついてくるならそれなりの覚悟をしな。

 “仲間”じゃねぇ。“荷物”でもねぇ。

 選ぶのはこっちだ。分かるな?」


俺は、こくりと頷いた。


言葉なんか、もう出なかった。

でも、立っていた。走っていた。

それだけで、きっと今の俺のすべてだった。


ミルラは小さく笑った。


「ようこそ、ウィンストン盗賊団へ。拓海くん」


彼女は俺の名前を聞いてもいないのに、そう呼んだ。


そして、三人で──森へと歩き出した。


森は、静かすぎた。


風はあるのに葉は揺れず、枝の擦れる音もなかった。

鳥の鳴き声も虫の羽音もない。

ただ、俺たち三人の足音だけが、地面に絡みついた草の上に響いていた。


「……なんか、変じゃないか?」


思わず口にすると、ミルラがふと立ち止まって、空を見上げた。

黒髪がさらりと揺れる。


「……確かに、気配が薄いわね。風が“通ってない”」


「瘴気だな」

ヨミが短く言った。


「昨日の夜から風向きが変わってた。上空の流れで“沈んでくる”んだよ、あの毒は」


「瘴気って、あの狂人たちの原因ってやつ?」


「そう。けど、一晩二晩で発狂するわけじゃないわ。……蓄積するの。

 蓄積して、ある日突然──ぷつん、と、切れるのよ」


「……そんなの避けようがなくねぇか」


「だから私たちは、拠点を“動かす”のよ」

ミルラが微笑んだ。


進むにつれて、周囲の光が弱くなっていく気がした。

木々の間を差し込む陽光が、どこか濁っている。

吐く息が妙に重い。


ふと、前を歩くヨミが足を止めた。


「来たか」


その声と同時に、木陰からひとりの女が現れた。


弓を背負った細身の女。

くすんだ緑のフードを被っていて、肌は浅黒く、目つきが鋭い。

狼のような沈黙と威圧感があった。


「……お前か、ネリア」

ヨミが声をかける。


ネリアと呼ばれた女は無言のまま頷き、小さく何かを投げてよこした。


手のひらに落ちたのは、小さな金属片。

錆びたアクセサリ──に見えたが、血がついていた。


「何だ、これ」


「偵察に出してた子の、耳飾りよ」

ミルラの表情が陰った。


「拠点近くの西斜面で見つかったそうよ。他の痕跡は?」


ネリアは、無言で地面に指を滑らせた。

指の先には、わずかな靴の跡と引きずられたような線。


「誰かが……運ばれた?」


「狩られた、ってこった」

ヨミの口調が鋭くなる。


「……クソが。サンズオブポセイドンか?それともまた狂人どもかよ」


ミルラが俺を振り返った。


「拓海くん、最初の拠点でゆっくりしてもらうつもりだったけど……

 ちょっと騒がしくなるかもしれないわね」


その目は柔らかかったけれど、底に沈んだ光が“戦場の色”をしていた。


俺は、思った。


──ようやく生き残れたと思ったら、もう次の修羅場が始まってる。


この世界は、待ってくれない。

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