第31話
* *
桐生屋の主人が買い付けから戻ったのは、押入りの事件から数日後のことだった。
出勤した神奈川奉行所でその報告を受けた清久郎は、伝右衛門を連れて桐生屋を訪ねることにした。その出掛けのこと。
奉行所に居合わせた田坂に、そっと呼び止めたれた。
「なあ、湊。竹脇さまのことなのだが」
「なんだ?」
支配組頭でありふたりの上司でもある竹脇が、どうかしたのだろうか。
「事件の少し前から、桐生屋に出入りしているのを見たってやつがけっこういるのだ」
「……そりゃあ、日本人町の商店を見廻るのも我々の仕事だし」
「うん、まあ、そうなのだが」
うなずいてみせる田坂だが、言いにくそうにしているのは、商人との癒着があるのではないかと案じているからなのだろう。田坂は言葉を選んで清久郎に忠告する。
「竹脇さまが桐生屋と個人的に親しい間柄なのだとしたら、面倒なことには首を突っ込まずにさっさと事件を解決しろと、そう考えておいでだろうと思ってさ」
「そうか。うむ、承知した。心がける」
「おまえは生真面目で不器用だから、少し心配だ」
田坂はそう言うと、「ではまた後で」と笑顔で立ち去った。
田坂の忠告を胸に、清久郎は伝右衛門とともに桐生屋を訪ねた。
「喜兵衛はまじめで信頼できる番頭でした。手前どもが腕の立つ者を連れて出かけたばっかりに、店が手薄になったところを狙われるなんて。そのうえ、留守の者たちの護身にと短銃を置いて行ったのが裏目に出るとは」
少しばかり白髪の混じった髷をきれいに結った主人が、涙ながらにそう語った。まとっているのは光沢のある縞紬の揃いで、いかにも裕福な商人だ。
板の間に正座する主人に対し、伝右衛門は店の土間に立ち、清久郎は草履のまま板の間に尻だけ乗せて上体を軽くよじった姿勢で尋ねる。
「それで、盗まれたものは?」
「はい、店からは前日の売り上げの一部が。蔵も物色されたようですが、たまたま仕入れの前でしたので、賊もすぐにあきらめたのでしょう」
そこで、清久郎は例の香袋を出してみせる。
「こちらも?」
「これは……これをどこで? いや、その、お恥ずかしい。家の者に見つかるとうるさいので蔵の棚に置いておいた物でございます。なくなったことには気づいておりましたが、とりたてて騒ぐのも憚られましたので」
桐生屋は気まずげにそう言うと、上目遣いで清久郎を見た。役人が何をどこまで知っているのか、探るような目つきだ。
畳みかけるように伝右衛門が訊く。
「ほかに盗られた物はねぇのかい?」
「え……あ、いいえ。いいえ、何も」
桐生屋はわずかに躊躇して、慌てた口調で断言した。
清久郎が淡々と言う。
「そうか。じつは賊が逃げた直後、俺は銃声を聞いて、走り去る賊を追いかけたのだ。残念ながら追いつけず、話を聞こうと戻ってきたところで事切れた番頭さんを見つけたってわけだ」
「そうですか。喜兵衛には気の毒なことをしました」
桐生屋は懐紙で涙をぬぐい、ちんっと鼻をかんだ。
清久郎は尋ねる。
「何か、金子のほかになくなった物はないか?」
「い、いいえ。ですから、何も……」
桐生屋はそう言いながらも、目を逸らした。
「そうか。忙しいところ、邪魔したな」
「お役目、ご苦労さまでございます」
清久郎が立ち上がると、桐生屋は安堵したように言って頭を下げた。が、清久郎は暖簾の手前で振り返る。
「ところで、リチャードソンってぇエゲレス商人を知ってるか?」
「え……?」
「こちらに賊が入った日の昼間、薩摩の大名行列に無礼討ちにされた男だ」
不意を突かれた桐生屋はしばし絶句し、それからかすかに口元を震わせて言う。
「もしや、生麦で斬られたというのは……?」
「知り合いだったか」
「い、いいえ、いいえ。その方のことは存じ上げません。ただ、こちらに戻ってくる途中、宿場などはその話題で持ちきりでしたので」
もっともらしく言いながら、桐生屋の目が泳いだ。
「そうか、邪魔したな」
清久郎は軽く頭を下げ、暖簾をくぐって外に出た。
「どう思う、じい?」
道を歩きながら、伝右衛門に尋ねる。
「何か隠しておりますねぇ。エゲレス商人の名にも覚えがあるようでしたし」
「そうだな。まるで生麦で死んだ男が知人だったと知って驚いたという顔だった」
「それに、盗まれたのも金子と香袋だけではなさそうです」
「何か公にできぬ物を盗られたのか」
それは何だろうと考えてみたが、清久郎には見当もつかなかった。
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