第26話
(つまり、お玉さんの尻尾は常人には見えないモノなのか?)
「恐ろしゅうはありませぬか?」
問われて、清久郎は花匂の横顔を見つめた。お玉を、ではなく、お玉のような怪しげなモノを手懐けている花匂を、恐ろしくないかと問うたのだろう。
お玉は、花匂が赤ん坊のころからお世話したのだと自慢していた。ヒトならぬモノに世話されて育つとはどういうことなのか清久郎には推し量ることもできないが、ヒトはしばしば異質なモノを恐れ、排除しようとする。
花匂の横顔は凜と気高い。
孤高という言葉を思い浮かべつつ、清久郎は言葉を選ぶ。
「普通ではないことでも、それだけで恐ろしいとは思いません」
普通でないと言うなら、「視える」清久郎も普通ではない。そもそも普通とは何なのか、自分で言っておいて清久郎にはわからなかった。
幼いころの清久郎もまた、幽霊を視てしまう自分を異端だと感じ、分かち合う相手のいない孤独に苛まれたものだった。いつのまにか上手に隠すことに慣れ、人付き合いもそれなりにうまくはなったが、心の奥底で他人とは馴染めずにいる自分を自覚している。
そのせいだろうか、花匂に共感のようなものを覚えた。
(いや、そんなふうに思うこともまた失礼か)
「おまえさまは変わり者でありんすな」
花匂は高慢そうに鼻で笑い、つぶやいた。それから、唐突に話を戻す。
「されど、仕事がなければ妹を売った金などすぐに底をつく。平吉は幼馴染の佐助を連れて横浜に来たものの、日雇いの仕事にさえありつけぬときは、アヤメを頼って岩亀楼に通っていたと聞きんした」
一瞬、何のことかととまどった清久郎だが、すぐにアヤメの話だったと思い出した。
「あきれた兄貴だな」
「それでも、アヤメは会いに来てくれるだけで嬉しいと言ぅておりんした」
郷里で仕事ができたころは、ろくでなしの兄ではなかったのかもしれない。
そう考えて、清久郎は苦い思いに胸が重くなった。開港以降の品不足と金の流出による物価の高騰は、地方の産業にも打撃を与えたが、そのあおりで苦しんでいるのは給与が固定されている下級武士たちも同じだった。攘夷を唱える自称志士たちの中には、自らの困窮を異人のせいにして憎んでいる者も少なくない。清久郎の父は御家人の中では比較的裕福だと言われる与力だったが、召し抱える者たちを養ってやりくりする内情はけっして楽ではない。
今は清久郎自身も父の後を継いで幕府に仕える身ではあるが、はたしてこの開国が正しかったのか、尊皇攘夷を唱えて治安を乱す志士たちの言い分のほうが正しいのではないか、そんな疑問が頭をよぎることもある。
清久郎は、そっと花匂を窺った。
京の公家の経済事情は、武家どころではなく苦しいと聞いた。
公家の姫だと噂されるこの美しい花魁も、困窮した実家を助けるために遊女に身を落としたのだろうか。京都にも遊郭はあるが、知人の目を避けてわざわざ東の居留地に来たのかもしれない。
そんな詮索を拒むように、花匂が清久郎にしなだれかかる。
思わぬ事態に狼狽する清久郎を、花魁の勝ち気な美貌が間近から見上げた。
宝玉を思わせる黒い瞳。熟れた果実のような紅い唇。
白いうなじから、甘い香りが立ちのぼる。
花匂の膝枕で寝ていたはずのお玉は、いつのまにか姿を消していた。
「ここは遊郭。言葉を交わすは前戯にすぎませぬ」
花匂はそう言うと、清久郎にしなだれかかったまま、華奢な指先で髷の簪を抜き取った。
遊び慣れた田坂から聞いたことがある。遊女は床入りする前に高価で邪魔になる髪飾りを自ら外すのだ。
「いや、俺は……」
客として登楼したわけではないと逃げ腰になる清久郎に上体を預け、花匂は徳利を手に取り杯に酒を注ぐ。
「初会に首尾せぬは客の恥、裏(二度目)に会わぬは遊女と恥と申しんす」
廓の常識など知らない清久郎だが、ここで杯を拒めば花魁に恥をかかせたことになるのだろうと、一杯だけのつもりで杯を干した。
酒を飲む習慣はないが、弱いわけではない。
なのに、渇いた喉が焼ける。
そのひと口で、全身に酒が回ったような酩酊感があった。
天地が逆転する錯覚に、思わず花匂にしがみついてしまった。
(すまない)
謝ったつもりが、声が出なかった。
腕の中に、華奢で柔らかな身体。
思わず抱き寄せた背中は、ほんの少し力を入れれば壊れてしまいそうなほど頼りない。
なのに、胸に当たる膨らみは意外にもふくよかで……腹の奥にくすぶる欲情が掻き立てられる心地がして、清久郎の体は思考とは裏腹に女体を抱きしめた。
愛おしい、そんな想いが頭を占め、花弁の唇を求めてむさぼった。
(俺は、何をしているのだ……?)
己の行動を訝しく思ったのは一瞬のこと。
ここは遊郭、男と女が交わるところ。
ぬくもりに包まれて、熱に浮かされたように柔肌をまさぐる。
場違いにも、もふもふの猫の腹に顔を埋めるような心地良さに胸が満たされた。
(ああ、ずっとこうしていたい……)
頭は思考を放棄して、心地良さに埋もれてどこまでも沈み込む――。
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