第12話

「本当に行かれるのですか、若」

「ああ。べつにおまえは付いて来なくて良いのだぞ、じい」

 運上所の前で田坂と別れた清久郎は、両脇に小さな店が軒を並べる開墾地の細い道を中間の伝右衛門とともに歩いていた。

 不服そうな顔で歩いていた伝右衛門が、ふと目尻を下げた。視線の先では、道端で寝転ぶ猫たちがのんびりと毛づくろいをしている。

 漁村だった横浜の港には、もともと猫が多かった。そのうえ異国の船が出入りするようになると、航海中のねずみ退治のために船に乗せられてきた猫なども加わって、さまざまな毛色の猫たちが住み着くようになっていた。

 清久郎が伝右衛門とともに暮らす役宅の庭先でも、しばしば猫を見かける。もしかすると、伝右衛門がこっそり飯の残りをあげているのかもしれない。

(いや、今は猫などどうでもいいのだ)

 よけいなことを考えてしまうのは逃避だろうか。

 清久郎の羽織の袂には、例の香袋が入っている。今のところ桐生屋の番頭殺しに繋がる手がかりは、この香袋よりほかにない。花魁花匂なら香袋の持ち主を知っているかもしれないと考えた清久郎だが、花魁を訪ねるのはどうにも気が重かった。

(気が重いのは、さっきの穢れのせいだ。遊郭に気後れしてるわけじゃない)

 自分自身に強がってみても、初めての遊郭はやはり緊張する。

 この通りを道なりに左に折れて堀に架かる太鼓橋を渡れば、そこが港崎遊郭だ。

 開港にともなって新設された港崎遊郭では、昼間は遊女を買わずに小銭を払って大見世を見物できるという。

 遊郭の入口である大門の手前には面番所があり、神奈川奉行所配下の下級役人が交替で詰めている。役人として遊郭に出入りするのであれば、ここは顔を通しておいたほうが後々なにかと都合がよい。

 気は進まないながらも、清久郎は面番所に顔を出した。顔見知りでなくとも、五つ紋の黒羽織に袴姿となれば立場は知れる。面番所の役人たちが立ち上がって頭を下げるのに、清久郎はかえって恐縮してしまう。

「いや、仕事の邪魔をしてすまないな。この先の五十鈴楼いすずろうで少々知りたいことがあって参っただけなのだ」

「お役目ご苦労さまです。ご案内いたしますか?」

「それには及ばぬ。大事ないと思うが、何かのときは助太刀をよろしく頼む」

 半分は社交辞令だが、請合うほうもそれは承知だ。

「お任せください、お気をつけて」

 上目遣いで少しばかり興味本位に顔を見られてしまったのは、遊郭に遊びに来た役人の野暮な言い訳だと思われているからかもしれない。それは不本意だが、いちいち説明するのもそれこそ野暮だ。

 清久郎は伝右衛門を連れて大門をくぐる。

(五十鈴楼は、大門を入って最初の角を左に曲がって……)

 遊び慣れた同僚の田坂から教わった道筋を頭に描き、清久郎は最初の角をきっちり直角に左へ曲がった。その奥、突き当たりに見える瀟洒な建物が目指す五十鈴楼らしい。

 手前の道沿いにも小さな妓楼が並んでいる。張見世というのだろうか、格子の向こうの女が微笑み、煙管や脂粉の匂いが漂ってくる。

 八丁堀育ちの清久郎だが、江戸勤めのあいだも吉原遊郭に足を踏み入れたことはなく、遊女をこの目で見たことさえなかった。若い頃は岡場所通いくらいしたとうそぶく伝右衛門も、港崎遊郭は初めてだという。

 五十鈴楼の前で足を止めて思いのほか立派な建物を見上げ、それから清久郎は覚悟を決めて入口に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る