第10話

 そのとき清久郎は、路地の向こうからじっと男を見つめる女がいることに気がついた。

 特に目立つ女ではない。女というより若い娘だ。落ち着いておとなびて見えるが、年のころはエリザベスとほぼ同じ、いやおそらく少し上だろう。小奇麗な縞木綿の着物を着て、小さく髷を結っている。近隣の漁村か農村の娘だろうか。

 ただ、その娘のしゃんと背筋の伸びた佇まいが、清久郎の目を引いた。

 清久郎の視線に気がついたのか、娘がこちらを見た。

 目が合うと、娘はハッとして何か思案する顔つきになったが、次の瞬間にはそれを振り切るように走り去った。

 直後、クラークの家を窺っていた若い男も清久郎たちに気づき、こそこそと逃げるように立ち去った。

「追うか?」

 田坂がのんびりと尋ねた。当人には追う気などまったくなさそうだ。

「いや」

 怪しい行動ではあるが、事件が起きたわけではない。清久郎も首を横に振り、ふたたびエリザベスと並んで歩き始めた。


 ふいに、背後から怒鳴り声が聞こえた。

 大柄な異人が、こちらに向かって何か怒鳴り散らしている。

 エリザベスの連れのふたりが大男に駆け寄り、宥めようとした。

 昼前から酔っているのか、大男の顔は赤くシャツの襟もだらしなく乱れている。

 英語はまるでわからない清久郎だが、不思議と悪口は察知できるもので、大男が清久郎らを罵倒しているのはわかった。昨日の今日だ、刀を持った日本人が居留地にいることに腹を立てる異人はいるだろう。はじめはそう思った。だが。

「ベンジャミンです」

 エリザベスがかわいい顔に嫌悪の表情を浮かべて言った。さすが大商人の令嬢だ、居留地には見知った者が多いらしい。

「ジェラール商会の、イギリス人です。父は、彼を真面目な商人だと言いました。でも、日本に来て、悪魔に憑かれたと言われています」

「悪魔、ですか」

 清久郎には悪魔がどんなモノかわからないが、ベンジャミンという男の首のあたりにモヤモヤと怪しげな黒い影がまとわりついているのはわかった。穢れだ。幽霊のように姿かたちは定まっていないが、ヒトに憑けば病を引き起こしたり、ときに珍奇な行為に走らせたりもする。

 悪態をつき続けるベンジャミン。それを宥めることに疲れた若者ふたりが、神の御手も届かない東の外れの地に来た不幸だと囁き交わしたのだが、エリザベスは可愛らしい眉をひそめたきり、その言葉を清久郎に通訳して聞かせようとはしなかった。


「失礼」

 清久郎はそう言うと、刀を抜いてベンジャミンに向き合った。

 彼を押さえていた若者ふたりは顔色を変え、慌てて離れながらも身振り手振りで清久郎を制止しようとする。

 清久郎はかまわず刀を振りかぶり、斬り下ろした。

「ひっ……!」

 引きつった声を上げたのはベンジャミンか、異人の若者のひとりか。

 刀が斬り裂いたのは、目の前の男ではなく黒い穢れだ。

 穢れはふたつに割れ、ほぼ霧散して消えたが、わずかに刃に貼りついて残り、それがまるで生き物のように這って清久郎の右手にもぐりこんだように見えた。

(なんだ、これは)

 痛みはないが、右手が重く、冷たい。

 無傷のベンジャミンはぺたんと地面に座り込み、酔いも醒めたのか呆けた顔であたりを見回している。表情は落ち着き、もう怒鳴り散らすようすはない。

「セイクロ?」

 呆ける男を凝視したエリザベスが、つづいて窺うように清久郎を見上げた。穢れなど見えてはいなかったようだが、清久郎が刀を振った直後にベンジャミンが正気に返ったことは誰の目にも明らかだったらしい。

「さすが、不動明王流、免許皆伝の腕前だな」

 パチパチと手を叩きながら陽気に褒めたのは田坂だ。

「剣の師は不動流だし、免許皆伝ではない」

 清久郎は律儀に訂正した。武道は心身の鍛錬によって悪しきモノを祓うのだ。

 エリザベスが瞳を輝かせて清久郎に問う。

「エクソシストですね」

「エク……なんですか?」

「悪魔、祓うです」

 悪魔というのが悪しきモノのことならば、近いと思う。清久郎は曖昧にうなずいた。

「ヒーローです!」

 無邪気に感動するエリザベスを前に、清久郎は否定しておくべきだったかと後悔したが、うまく説明できそうになくて口を閉ざした。

 文字通り憑きものの落ちたベンジャミンはわけがわからないという顔をしていたが、やがておとなしく自分の仕事場へと引き返したようだった。

「見廻り役のお役目を果たしているな」

 田坂が清久郎の首に片腕を回して戯れかかるのに、

「これがお役目か?」

 清久郎はうんざりしてその手を解いた。

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