第3話 西花(せいか)
孤独な西山に、予兆の風が吹き始めた。
決意を固めた兄弟弟子たちは、掌門に下山の意志を申し出た。
それを許され、
最後の礼を済ませた彼らは、もはや外の人間となった。
「くそったれジジイ。俺はここで十年以上も無駄にしたのに、旅費の一つも寄越さねぇのか?」
門派に長く仕えた者が去る際には、
労いとして多少の銀子を手渡すのが常だ。
だが、滅門寸前の西山派に、そんな余裕があるはずもない。
病を抱える掌門にすがっても、得るものはない。
そう思い、外に出て悪態を吐くのだ。
「こんな所でウダウダしてる場合かよ。持ち出せるもんは全部持っていこうぜ。」
「そうだ。せめて何か掴まなきゃな。市場で売って、酒でも飲もうや。」
流新には、彼らを止める術がなかった。
山中にも確かに戒律がある。
だが、彼らが徒党を組み、己の正義を口にするならば——
流新はただ黙って見守るしかなかった。
せめて、兄弟の情に免じて、
荒っぽい行動だけは慎んでほしいと願っていた。
…
彼らは倉庫から別室まで、あちこちを荒らし回った。
書や農具、刃物に至るまで、
持ち運べるものをすべて荷に詰め込み、下山を急ぐ。
去っていく列の一人が、不意に流新に謝罪の言葉をかけた。
「こんな形でしか去れない俺を、許してくれ。」
自らの行いが誤っていることは分かっている。
だが、今は食っていくのも難しい。どうしようもないのだ。
恥じているのか、流新と目を合わせることができなかった。
「私は……理解する努力をいたします。どうか、お気をつけて。」
流新は苦い思いで、兄弟の無事を祈る。
縁があれば、またどこかで会えるだろう。
その時には、互いの事情が少しでも良くなっていればと——
その日が来たら、改めて詫びを受けよう。
…
結局、西山に残ったのは、わずか四人となった。
流新がまず心配したのは西花であった。
騒動が起きた場合、互いに合流する場所をあらかじめ約束していた。
しかし、そこに彼女の姿はなく、音沙汰もない。
流新は胸騒ぎを覚え、急ぎ辺りを駆け回った。
…
間もなく、調理場の前でうずくまり泣いている西花を見つけた。
近づく気配に、彼女の肩がぴくりと震える。
ぼさぼさの髪を上げ、流新に向かって声を張り上げた。
「ここだけはダメです! あなたたちの食事のために、ずっと頑張ってきたんです。ここだけは……ダメ!」
涙に濡れた目は、誰の顔かすら判別できていないようだった。
目の前の光景に、流新の脳裏には嫌な想像が浮かんだ。
西花は、おそらく——
兄弟たちの略奪を、必死で食い止めていたのだ。
そんな行動など、流新は思いも寄らなかった。
「どうしてこんなことを……西花(せいか)、怪我はありませんか?誰かに何かされたんですか?」
「り、流新(りゅうしん)師兄……わたしは大丈夫です。誰にも何もされていません……」
西花の無事を確認した流新は、抑えきれぬ怒りに声を荒らげた。
「西花!!なぜ彼らを止めようとしたんですか!?あなたは私のところへ来るべきでした!どうしてこんな愚かなことを!」
突然の叱責に、西花の感情が逆流する。
ついに、たった一人の師兄に向かって大声で反論した。
「いやよ!いやなの!あたし……この場所が壊れるのは見たくなかったの!思い出が、あんな奴らの手に汚されるのは絶対にいや!」
「そんな思い出のせいで傷ついたらどうするんです!?こんなクソみたいな山に、どれだけ大した思い出があるって言うんですか!」
その言葉が落ちた瞬間、西花の眉間がきつく寄った。
……まともに顔を見るのがつらくなるほどだった。
――それは、明らかな失言だった。
流新は自らの口を悔やみ、胸が締めつけられた。
だが、もはや取り返しがつかない。
西花は震える息を吐きながら、一言一言を絞り出すように口にした。
「た、確かに……些細な、思い出かもしれない。けど……これは、西花のすべてなの。誰よりも……流新師兄、あなたにだけは言われたくなかった……!」
見開いた瞳には、決別の意志が宿っていたかのようだった。
時間も場所も、適切ではなかった。
彼女を思っての言葉が、逆に傷を与えてしまった。
視線がぶつかり続ければ、さらなる衝突を招くだけだ。
流新は感情を鎮め、改めて彼女を見つめた。
師兄に抗った彼女の気丈な表情の奥で、
その小さな拳が震えているのを、彼は見逃さなかった。
それは怒りか、それとも恐怖か。
流新の目には、それはただただ、哀れで痛ましい姿に映った。
再び彼女の顔を見れば、崖っぷちに立たされた子供のような表情だった。
――自分が、彼女を追い詰めたのか。
流新は胸の罪悪感に耐えきれず、そっと歩み寄った。
そして彼女の目線まで膝を落とした。
「……すみません。私の、言葉が過ぎました。」
その優しい声に、西花の表情がふっとほどけた。
「でも……なぜ一人で立ち向かったんですか?」
熱を帯びた西花の瞳が、長いまつげの陰に隠れる。
視線をそらし、唇を噛んで答えを飲み込む。
先ほどまであれほど強くあった態度が、いまや萎縮している。
「あなたなら分かるはずです。大切なものだから守りたかったのなら、なおさら私を頼るべきでした。」
「……」
「西花にとって大切なものは、私にとっても大切なものです。私が黙って見過ごす理由などありません。」
「でも、それじゃ……」
「ええ。私が怪我をするかもしれません。ですが、それが師兄としての役目です。」
「もし西花が傷ついていたら……私は、自分自身を責めたでしょう。あなたの信頼を得られなかった自分に、深く失望していたはずです。」
その自責の言葉に、西花は苦しくなってたまらなかった。
ピンクの唇を震わせながら、ついに真実を告白する。
「私は……師兄が傷つくのが、いや。」
「私も、西花が傷つくのがいやです。」
微妙に会話がすれ違う。
それでも、場の空気は次第に静まっていった。
「ともかく、ご無事で何よりです。本当に……よかったです、西花。」
流新はそっと彼女を抱きしめた。
実のところ、彼の手も震えていた。
確かに恐れていたのだ。
その震えが、西花の肌に触れて伝わる。
言葉以上に、彼の想いが鮮明に届いた。
西花は、たまらず涙をあふれさせた。
(私……なんて自分勝手だったんだろう)
(師兄との思い出を大切にしたかっただけなのに、その人自身をなおざりにしていた……)
彼の腕に包まれると、全ての震えが止まった。
抱かれることで、ようやく安心が芽生えた。
これほどまでに、大切な人。
これほどまでに、恋しい人。
「うわああん……師兄、ごめんなさいっ……」
流新はそれ以上、何も言わなかった。
ただ静かに、西花の背中を撫でてやった。
…
…
誰の過ちでも、誰の失敗でもなかった。
避けがたい時の流れの中、静かに過ぎていくものがある。
季節が去るように、
過ぎた日々を思い返せば、悔いも残るだろう。
けれど、君と私が無事であるならば、何をそれ以上望むだろう。
人の欲は限りがないと、賢人は戒めた。
この気持ちが欲であるなら、今はそれを捨てよう。
……だが、簡単ではない。
この小さな背を、ぎゅっと抱きしめたくなる衝動に、たびたび駆られる。
ただ一緒にいるだけなのに、
多くのものを諦め、慎まねばならない。
だが、それもまた当然のこと。
彼女のために、流新は心の欲を断とうと決めた。
しばらくの間、二人は何も言わずに抱き合っていた。
過剰な感情と震えは、あっという間に溶けて消えた。
涙が止まった西花(せいか)は、恥ずかしそうに口を開いた。
「師兄……」
「……」
流新(りゅうしん)は、とぼけたふりをする。
「流新師兄? もう十分です。もう、離してください。」
「失礼しました。香りに酔って、つい眠ってしまったようです。」
「ふざけないでください。そんなこと言われても、西花は嬉しくありません。まして、こんな格好で……。もう部屋に戻って休みたいです。」
流新は素直に身を引いた。
西花は赤くなった目元を整えて立ち上がろうとしたが、どこかぎこちなく、すぐに座り込んでしまった。
「私……足に力が入らないみたいです。少し休んでから……」
流新は彼女の前にしゃがみ、背中を差し出した。
冴えない男の厚意に、西花はしぶしぶ応じた。
その日は、特に山風が強かった。
無情な風が肌をかすめ、体温を奪っていく。
だが、二人の感じる温もりは、いつもよりもずっと温かかった。
「師兄。」
「はい。」
「あの……苦しくないですか?」
「西山の花を背負うことに、苦労などあるはずがありません。」
「また、そうやってからかって……」
「師兄。」
「はい。」
「まだ……私から香りがしますか?」
「申し訳ありません。もう、冗談は言いません。」
「……もう。ちっ。」
「流新師兄。」
「今度は何ですか?」
「どうしても言っておきたいことがあるんです。」
『首筋にしがみついたか細い手が、節を丸めて微かに震える。』
「もし、成し遂げたい志があるのなら、気にせず旅立っても大丈夫です。私は決して師兄を引き止めたりしません。」
「……」
「でも、まだ決めかねているのなら……もう少し、私のそばにいてください。お願いします……ん……」
短い呻きとともに、流新の首筋が濡れた。
『お兄ちゃん……』
幻聴が聞こえた。
彼女の震える手と共に、忘れたはずの記憶がよみがえる。
流新はしばし過去に沈み、やがて再び歩を進めた。
西花をあえて慰めなかった。
ずいぶん遅れたが、ようやく分かったからだ。
「……勇気を出しましたね。」
過去の結末はともかく、これが正しい答えだったのだろう。たぶん。
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