りゅうしんでんき[流新伝記]
@ofline
第1話 せいざんにほうる。
国に飢饉が続き、役人の腐敗が蔓延る時代。
民の暮らしは困窮を極め、飢えと病に倒れる者が後を絶たなかった。
そんな時世の、よくある一幕。
猛禽の影が空に舞う。
鋭い目で獲物の頭上を旋回し、貪欲にその瞬間を狙っていた。
その視線の先にいたのは、
灼けつく陽を避けて、木陰に身を寄せ合う少年と幼い少女。
乱れた髪、汚れた布を巻いた姿。
誰が見ても、浮浪の子らに違いなかった。
親の姿はない。
胸騒ぎが過ぎるころ、
少年は幼い少女を背負い、当てもなく歩き始める。
どこへ向かうのかさえ分からず、
ただひたすらに、歩いた。
「……お兄ちゃん。」
「うん、大丈夫。心配しないで。」
少年は、病に伏す妹を必死に慰めた。
だが、少女はときおり、弱々しく彼を呼ぶ。
「お兄ちゃん……」
力も残っていないはずなのに、
赤子のように切なげに繰り返す声が、
彼の胸をじわじわと焦がす。
叱ることなどできるわけもなく、
少年は歯を食いしばって、それに耐えた。
耳元にその声が届くたびに、
重い足取りを、なおさら速めた。
「……もう少しだ。
きっと誰かが助けてくれるはずだから。」
背中に回された小さな手が、かすかに震えている。
その様子を見る限り、彼の言葉はまったく届いていないのだろう。
「……ごめん。でも、頑張ろうな。」
衰弱しきった少女の瞳には、寂しさが映っていた。
本当は、そんな言葉が欲しかったわけじゃないのに。
けれど、それを伝える術はなかった。
少女は、“お兄ちゃん”としか言えなかった。
他の言葉は、舌の奥でつかえて、音にならなかった。
生まれつき、話すことが困難な体だったのだ。
「……お兄ちゃん。」
短い命の中で、彼女が唯一、
心から紡げた言葉は――そのたった一語だけだった。
けれど、それで十分だった。
彼女にとって、“お兄ちゃん”こそが世界のすべてだったから。
もう、少女は限界だった。
病に蝕まれ、体は冷たく、重く、沈んでいた。
それでも、なお彼女は兄を呼んだ。
――もう、降ろしてほしい。
――もう、行かなくていい。
彼女は願っていた。
兄はもう、十分頑張ったのだから。
あんなに優しい兄が、これ以上泣いてはいけないから。
でも、その願いを少年が理解することはないだろう。
ましてや、受け入れるなど、できるはずもなかった。
彼は、そういう「お兄ちゃん」になろうと、誓ったのだから。
少女の胸に残ったのは、
ただ一つの未練。
せめて最後に、
もう一度だけ兄を抱きしめていたい――。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
低く、切なる呼び声に、
ほんの少し、安心が滲んだ。
震えていたまぶたが、そっと閉じられた。
……
呼び声が、いつしか止んでいた。
少年は、唇を震わせながら妹の名を呼ぶ。
「……喜(ひ)……?」
遅れて、その意味を悟った。
彼は空を仰ぎ、
声もなく、無様に涙を流した。
心が砕けても、足は止まらなかった。
どこへ向かうでもなく、
ただ助けを求めるためだけに、進んだ。
けれど、それは誰にも届かぬ、
小さくて、みすぼらしい努力だった。
その日。
あなたの妹は、命の灯を閉じた。
…
…
無意識の中、黒い霧が晴れてゆく。
隙間から、遠くない風景がぼんやりと広がっていた。
半ば崩れかけた家の前庭で、
小さな兄妹が向かい合って、楽しげにふざけている。
「喜(ひ)や。もう一回やってみよう。お〜っば〜あ。」
「お〜おっく ばあ〜っく。」
「もう一度、オ・ッ・パ。」
「おっく・ばっ!」
互いの口元を真似るその姿は、滑稽で微笑ましかった。
ついに妹が先に吹き出し、
兄もつられて笑うしかなかった。
その小さな巣のような場所で、共に過ごした平凡なひととき。
そんな記憶だった。
少年は、幸せすぎて静かに涙をこぼした。
意思とは関係なく、熱く溢れ出た。
それを見守っていた妹は、そっと目を閉じた。
感情を抑えきれない兄に向けて、慰めるように穏やかに言った。
「……お兄ちゃん。」
慰め、励まし、そして別れと諦め。
その一言に込められた多くの意味を、少年は気づかぬはずがなかった。
「喜や……オッパと一緒に行こう。手を握って……」
涙を拭い、急いで差し出したその手に、
妹は反応しなかった。
その態度に、怒りが込み上げた。
「バカッ!早く!!言うこと聞いてよ!!」
「……喜や?」
「……どうして泣いてるの?」
…
満月の夜。まだ余韻が残る頃だった。
獣の羽ばたく音に、少年ははっと目を覚まし、激しく取り乱した。
「あっ……くそっ!!くそッたれの鳥野郎!!」
大きな鳥が、妹の肉を食いちぎっていたのだ。
そのまま遠くへ飛び去ってしまった。
少年は胸を押さえ、怒りに震えた。
ただただ、無意味に声を張り上げた。
慌てて妹の体を確認すると、
裂けた皮膚の間から、血と骨が見えていた。
少年の瞳が揺れる。
衝撃で手が震え、妹に近づくことすらできなかった。
どうすることもできず、ただ静かにすすり泣いた。
…
しばらくしてようやく、少年は涙を拭った。
そして、自分の衣の裾を引き裂いた。
それで、鳥に食い荒らされた妹の体をそっと覆い、縛った。
死者に意味はない。
ただ、自分を落ち着かせるための慰めに過ぎなかった。
少年は木に寄りかかるように腰を下ろした。
ぐったりとした妹を抱きしめ、全身でその体温を確かめた。
そして歯をガチガチと鳴らした。
開いたままの目は、恐怖に怯えながら闇を睨んでいた。
そうして、夜を明かした。
…
…
どうか。
冷えきった妹の温もりが、戻ってきますように――。
夜通し抱きしめていたが、
枯れた花が再び咲くことはなかった。
昇る陽が、血の気を失った子の頬を照らす。
そして、少年は残酷な現実を目の当たりにし、茫然とした。
――ああ。
夢の中で見た、あの涙が忘れられない。
…
少年は再び、妹を背負った。
もう、甘えた声も聞こえない。
けれど、それが背を下ろす理由にはならなかった。
…
ジリジリと音がする方へ腐った枝をどけると、虫がうごめいていた。
空腹がひどすぎた。
少年はそれを口に運んだ。
たとえ腹を壊しても、気にする余裕はなかった。
…
そしてまた、夜がやってきた。
…
…
朝日が昇る。
少年は当たり前のように、妹を背負っていた。
ぶらぶらと揺れる体からは、腐臭が漂っていた。
それでも、降ろす理由にはならなかった。
…
あと何歩、歩けるのだろうか?
ぼんやりとした思考の中、意識を失いかける。
これまでの努力がもったいないほど、力なく崩れ落ちた。
すべてがぼやけてゆく。
少年は、生きたいという意思を失っていた。
疲れて、
苦しくて、
空腹で、
けれど、
その時ばかりは、不思議と心が穏やかだった。
そして、脚がわずかに痙攣する。
(……止まるな。)
少年は問う。なぜ?なぜ止まってはいけない?
答えは出ない。忘れてしまったようだ。
でも、もうどうでもよかった。
背中から、不思議な気配が立ち上る。
掴むような、小さな指先の感触。
そして、どこからともなく声が響く。
まるで幻聴のように。
『……お兄ちゃん。』
うるさくて、鬱陶しくても構わない。
けれど――
『……お兄ちゃん。』
『お兄ちゃん。』
『う、う……お兄ちゃん……』
――妹が泣くのは、もう見ていられなかった。
だから……
「バカ。泣くなよ。」
一瞬、意識が冴えて、ようやく思い出す。
少年は妹のために、ここまで歩いてきたのだ。
そして、それはまだ終わっていない。
酷使された足は、それでも諦めていなかった。
そう。
この瞬間まで、少年は――
妹の死を認めていなかった。
か細い魂が、まだこの世を去れていないのなら、
彼女がこれを見て悲しむ姿が、目に浮かぶ。
少年は悟った。
――自分の執着が、
彼女を泣かせていたのだと。
…
不器用に告白する。
(……喜や。ダメな兄で、ごめんな。)
込み上げる想いを堪え、
ついに彼女を「見送る」決意をする。
(来世では……
どうか、幸せになってほしい。)
そう心に誓ったとき、
全身から力が抜けていった。
もう、あの声は聞こえなかった。
少年は――
安堵とともに、
ほんの少し、寂しさを感じていた。
…
…
いつからか、耳元に鳥のさえずりが聞こえてきた。
それに、鈍っていた感覚がわずかに蠢く。
目元に光の色が差し込む。
まぶしさに負けて、ようやく目を開けた。
見慣れない天井を見上げ、あたりをきょろきょろと見回す。
少年は、静かな部屋の寝台で目を覚ました。
意識が朦朧とし、思考が定まらぬ中、
壁の向こうから足音が聞こえる。
間もなく、白い道服を着た体格の良い男が部屋に入ってきた。
「目が覚めたか。意識が戻って何よりだ。」
男は穏やかに近づき、少年の脈を取った。
「もう煎じ薬は要らぬな。少し待っていなさい、食事を持ってこよう。」
少年は、その好意を拒まなかった。
夢中で噛みしめた飯粒に、甘味を感じる。
久々に味わう旨みに、緊張がふっと解けていった。
すると、張りつめていた心が堰を切ったように崩れ落ちた。
それは頬を伝い、ぽろぽろと落ちていく。
飯粒に混ざって、奇妙な味になった。
まだ子供ではあるが、
声も出さずに流すその涙の深さを、男は察していた。
ゆえに、彼は静かに部屋を出た。
少年はひとり残り、ふくれた頬で懸命に咀嚼を続けた。
必死に喉の奥へと押し込んだ。
(……天の恵みを授かったのだ。)
飢えが癒されたことに、そんな感謝を感じる。
しかし――
(なぜ、妹だけ見捨てられたのですか?)
満たされた腹に、拙い恨みをぶつける。
天はいつだって、あらゆる逆説を黙って受け入れるだろう。
だが、決して答えることはない。
それゆえ、万理の理からは一歩も外れない。
少年もまた、
こぼれた全ての現実を、やがては黙って受け入れるのだろう。
ただし、それが今日でないだけだ。
…
…
食事を運んでくれた男に、何日か世話になった。
互いの間にあったよそよそしさが消えた頃、
男は少年の名を尋ねた。
「流新(りゅうしん)……良い名前だな。私は西援(せいえん)という。これからは大師兄と呼ぶといい。」
大師兄は、少年・流新の隣に座り、優しく様々な話をしてくれた。
ここは『西山(せいざん)』という地であり、
今後は西山派の門下として暮らすことになるという。
そして――
もう、飢えることはないだろう、と。
(もう……そんなこと、どうでもいい。)
…
やがて二人は部屋を出て、外の世界へと歩み出た。
大師兄が先を行き、
幼い弟子はその背を追う。
長く伸びた木々が空へとそびえ、森を成していた。
急な坂に、吐く息がひんやりして、
その山の高さを思わせた。
曲がりくねった道を越え、
西山の陽当たりの良い墓地に辿り着く。
大師兄が指差す。
少年・流新は、名も無き石碑の前に立った。
「……」
不思議と、涙は出なかった。
悲しみも、込み上げてこない。
かすかに、
妹にまた会えるような気がしていた。
なぜだか、そうした確信が胸にあった。
「……うっ。」
一人きりで過ごした長い時間、
妹に伝えたかった言葉があった。
それが喉元までせり上がる。
――君がいなくて寂しかった。
もっと一緒に遊べばよかった。
君に自分のものをあげるべきだった……。
取り留めのない思いが湧いてくるが、すべて無意味だ。
不要な言葉を捨てて、最後に残ったのは、たった一言。
「……ひっ、く。ごめん……。」
少年は、嘘つきだった。
止まらぬ涙に、成す術もなかった。
悲しみが、あふれて止まらない。
失ったものへの未練に、声を上げて泣いた。
現実を否定する。
……二度と会えぬ妹を、想い続けて。
こうして――
あなたは。
西山の麓に、大切な人を埋めたのだ。
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