side:多希
二人の兄貴と、引っ張り上げてくれた人
「なんか最近、階段の上り下りが辛いのよねぇ、疲れやすいっていうか。すーぐ息が上がっちゃって」
そんな話がきっかけだった。
これが更年期ってやつなのかしら、と笑いながら言う母に、向かい合ってミカンを食べていた俺は、「年も年だしな」なんて軽口を返した。だけど、年も年、なんて言うほどの年齢でもなかった。何せその当時は四十六だ。そりゃあそろそろ更年期なんかもあるのかもだけど、あん時は俺が仕事を辞めて、一人暮らししていたアパートの退去やら何やらでかなり迷惑をかけたりもしていたから、少なからず責任は感じてた。心身共にかなり疲れたはずだ、と。せっかく独り立ちしたと思った一人息子が出戻って来たわけだし、今後についても色々と心配だったに違いない。
だから、表向きは軽口を叩いていたけれども、内心ではかなり心配していた。
偶然にもその時の下宿生がちょうど全員卒業だったから、来年の三月で一旦下宿を畳み、まずはしっかり身体を休めよう、という話になった。
母親が言うには、更年期障害の初期症状っぽいとのことだったので、婦人科に通うことになった。俺は母親の知り合いが店長を務めているコンビニでアルバイトをしていて、頼み込んでシフトを増やしてもらった。何せ世話する下宿生がいないのなら家にいたって仕方がないし、母の通院には当たり前だけど金がかかる。車での送迎もしてやりたいからシフトは多少融通が利く方が良い。
そんなある日のことだった。
バイトから帰宅すると、母が台所で水仕事をしていた。そんなの俺がやるから、と代わろうとしたところで、突然胸を押さえて倒れたのである。一瞬、何が起こったのかわからなかった。質の悪い冗談とか、そういうやつだと思い込もうとした。だって、母はちゃんと俺に向かって「お帰り」と言ったのだ。多希お帰り、って。いつものように。
たぶん、信じたくなかったのだ。
母ちゃんっていうのは、無敵で不死身だ。
家の中で誰よりも強くて、元気で、声がデカくて、どんな時でも太陽のように明るい。そういう生き物だと思っていた。
いつまでも元気だと思っていたのだ。
いつまでも元気で、当たり前にそばにいてくれるものだと。
数秒遅れてやっと事態を飲み込んで、救急車を呼ばないと、とスマホを取り出した。電話の向こうのオペレーターに聞かれるがままあれこれ答え、ほどなくしてそれは到着した。そこから先は記憶が曖昧だ。
緊急手術だ何だって話になって、やたらといっぱい書類にサインさせられたのは覚えてる。気付けば手術は終わって、母は、たくさんの線に繋がれた状態で出て来た。
今朝、俺の尻を引っ叩いて送り出してくれた母親が、ベッドに横たわっている。
変な感じだ。母がこうして寝ているところなんてなかなか見る機会がなかったから。俺は母が昼寝をしているところだって見たことがない。いつも忙しなく動いていた。動いてる方が楽なのよ、っていつも笑っていた。
大丈夫、いまに目を覚ますはずだ。
そんな大したやつじゃない。
昨日だって普通に会話をしていたのだ。今朝だって普通に飯を食ってた。行ってらっしゃい、車に気を付けるのよ、って。毎日毎日飽きもせず言うんだよな。あのな、俺もう二十四な? いい歳した大人だわ、なんて笑って、いつものように家を出たんだ。
それなのに。
死んだりなんかしないよな。
俺まだ何も返せてないんだぞ。
ずっと苦労ばかりかけて来て、たぶんこれからもそうだと思うけど。
ドカンと一発当てることなんて無理だから、少しずつ、少しずつ返すつもりだった。これまでに受けた愛情を、何らかの形で返すつもりだったんだ。
ここ最近はずっと俺が作った飯を食ってて、「さすがあたしに似て美味いわね」なんて言ってたじゃんか。まだ披露してないやつだってあるんだ。まだ食わせてないやつがあるんだ。
ずっと下宿をやってたから、旅行だって行ったこともない。
新学期、友人からどこそこのお土産をもらったと持ち帰る度、どこにも連れて行ってやれなくてごめんと悲しそうな顔をするから、大きくなったら俺が連れてってやるよと返したのに、それだって実現出来てない。
それなのに。
心筋梗塞だって。
あっけなく。
母の葬式には、歴代の下宿生達がたくさん来てくれた。遠方に住んでいてどうしても無理だという人からは香典が届いた。
母は父と駆け落ち同然に結婚したらしいのだが、俺が生まれてすぐに離婚。理由は聞いてないけど、慰謝料をかなりもらったと笑っていたから、まぁ不倫とかなんだろうな。どうでも良いけど。母の両親はとっくの昔に亡くなっていて、親戚という親戚もいなかった。葬式代は死亡保険で賄った。そこまでちゃんと考えていたのだ。最期まで、俺に迷惑をかけないようにと考えてくれていた。
「多希、大丈夫か」
声をかけて来たのは、派手なはずの髪の毛を無理やり真っ黒に染めて来たヒロだった。最後の下宿生で俺の一個上だ。
大丈夫とも、大丈夫じゃないとも言えなかった。一応、曖昧に頷く。
「向こうで少し休んでろ」
そう言って、背中を支えてくれたのは陽ちゃんだ。俺が高校生くらいの時に住んでたやつで、兄貴みたいに慕ってた。この二人はこれまでの下宿生達の中で一番仲が良かったのだ。葬式なんて何をどうしたら良いのかわからない俺を助けてくれたのはこの二人である。まさか二十四で喪主を務めることになるとは思わなかったし、頼れる親戚もいなかったから本当に助かった。
陽ちゃんは、地元の山形で働き始めてから、毎年五月に仙台で開催されるハーフマラソンに出場するようになった。確かに彼はジムのインストラクターをしているバリバリのスポーツマンではあるけど、駅伝なんかで見るような、長距離ランナーの身体ではない。なのに、何でまたマラソンなんて、と思っていたが、どうやらこの手のイベントの参加時にはまとまった休みが取れるものらしい。それを口実にしてでも母に会いに来たかったのだと知ったのはつい最近のことだ。
ヒロはヒロで、「おれは自由業だから」とほいほい顔を出してた。東京って便利だよなぁ、新幹線使えば仙台まで秒じゃん? なんて言って。秒なわけないだろ。それで、「良子さんはもうちょっとふっくらしても可愛いよ」とか言いながら東京の流行りのスイーツを貢ぐのである。おいやめろ。人の母親口説いてんじゃねぇ。今度九州フェアやるらしいから、次は九州土産持って来るな、ってのが母と交わした最期の言葉だった。それで「約束通り買って来たぞ、九州土産!」なんて東京で買った九州銘菓を遺影の前に供えてくれたりして。
式が終わって落ち着くと、陽ちゃんは山形に戻ったが、ヒロはしばらく家にいた。一人でいると良くないことを考えてしまいそうになるから正直ありがたかったけど、いつまでもそうしていられるわけでもない。ずっとこっちにいるせいで仕事仲間と揉めたっぽいことを知り、無理やり帰らせた。俺のことより自分のことを心配しろって強めに言った。ちょっと強すぎたかもとは思ったけど、そうでもしないとズルズルと甘えてしまいそうだったのだ。
この二人がいてくれなかったら、俺は早々に潰れていただろう。頻繁に会えるわけではないけど、ずっと心の距離は近かったと思う。
だから。
「俺、六月いっぱいであそこ辞める! そんで、ここに住む!」
そう陽ちゃんが言い出した時も、
「だったらおれも住むっきゃなくねぇ?」
陽ちゃんが住むと聞いて、俺もとヒロが乗っかった時も、本当は涙が出そうになるくらい嬉しかった。普通、そこまでしねぇだろ。たった数年間世話になったってだけの、他人の息子だぞ。おかしいだろ。多く見積もってもせいぜい『友人』だぞ、俺らの関係なんて。二人はふざけて俺のことを『弟分』なんて言うし、俺も兄貴みたいに慕ってはいるけど、血なんか一滴も繋がってねぇからな。
だけど。
その数年間がきっと、二人にとっては特別だったのだ。将来を決める大事な時期の腹を満たしてくれた、心を支えてくれた『山家良子』という人間を本当に大事に思ってくれて、あのたった数年を本当に大切に思ってくれているのだろう。また下宿をやりたいなんて、酒の席で吐いた戯言だったのに。
「あ、そうだ。いっそ幸路君も住まね?」
ヒロが口を滑らせた時、ほんのちょっと――いや、かなり期待した。
幸路さんは、
だから、悩んでいるような素振りを見せる幸路さんに、
「住みたくなったら早めに言えよ」
と、多大なる期待を込めて、そう言った。
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