【2】大人は揚げ物にさっぱり大根を添えて
焼けた舌はアイスで冷やして①
【side:幸路】
『今晩、鶏の竜田揚げと大根の梅昆布和え、きのこの味噌汁だけど食う? 白飯付きで五百円な。』
時刻は十七時。退勤まであと一時間である。本日は待ちに待った金曜日。大体いつもこの時間になると、多希から今晩の献立のお知らせが届くのだ。空腹を刺激するその内容に、ぐっと歯を食いしばって天を仰ぐ。恐らく多希の方では、退勤時間ギリギリに送るよりは予定が立てやすいだろうと気を遣ってくれているのだ。それは確かにそうではある。
ただ、惜しいな、多希。
それであればもう一時間早く送ってくれ。
何せ金曜日のこの時間帯は軽く気が緩み始めるもので、あと一時間、あとひと踏ん張りと己を奮い立たせるため、「なぁこの後飲みに行かね?」などと言った声が飛び交いがちなのだ。要はアレだ、目の前ににんじんをぶら下げるってやつだ。
俺は多希からこのお誘いが来るものと思って端から断る気でいるし、実際断っているのだが、もしこれがなかったら、三回に一回は「じゃあ」と受けていただろう。
「おい佐藤、どうだこの後」
予想通り、向かいの席に座る先輩の
この向山田さんというのは、単純に社歴が俺よりも長いというだけで役職にも就いていない。シンプルに、ただの先輩である。だからまぁ多少打算的な話をしてしまうと、特に媚びを売っておいても何の得にもならない人だったりする。さらに言えば、俺はこの人から何かを学ばせてもらった記憶もあまりない。新卒の時、右も左もわからなかった時に気さくに話しかけてくれたことについては感謝しているが、教育係だったわけでもない。
その、向山田さんからのお誘いだ。
こんなもの、多希云々抜きにしても断る一択の案件である。
「すみません、今日はちょっと」
「んあー? 何だよぉ。お前最近付き合い悪くね?」
「すみません、ほんと」
一応申し訳なさそうな顔を作ってそう言うと、彼は苦虫を嚙み潰したような表情で「んだよぉ、行こうぜぇ」となおも粘った。けれど俺が折れないのを見て、ちらりと視線を隣に移す。
「そんじゃあ仕方ねぇな、おい、
ロックオンされたのは、新卒の佐田君だ。俺に対しては「どうだ?」と伺う姿勢があるにも拘らず、佐田君に関しては「行くぞ」と確定事項のように言うのが彼の性格をよく表している。こういう人なのだ。ごめんな佐田君。たぶんまぁ良い経験にはなると思うんだ。どんな良い経験かって聞かれても即答出来ないけど。
「すみません、僕無理です。別に強制じゃないですよね?」
多少ハラハラしつつ動向を窺っていると、佐田君がスパンと切った。まさかの返答に向山田さんが目を丸くする。
「強制なんですか?」
「い、いや、別に」
「向山田さんの奢りですか?」
「それは、えっと」
「無理です。すみません」
いまの若者、ほんと強い。たぶんこの手の誘いに乗るのは俺くらいの世代でギリギリなんじゃないかと思う。とはいえ同期の中には佐田君のようにスパッと断る人もいるけど。俺はというと、さすがに上長から声をかけられたら断りにくいかな、という感じだ。これが井上課長だったら多希の方を断っていただろう。土曜日にずらせないかとか、そんな交渉をしたかもしれない。だから、俺の場合は人による感じではあるが、これだって父親に話したらかなり驚かれた。そんなことが許されるのか? 俺達の時代は~、と長くなりそうだったので適当に流したけど。
さて、佐田君に振られた向山田さんである。「なぁ佐藤、本当に駄目か? 俺振られたんだけど」みたいな顔でこっちを見ているが、ここで仏心を出したら終わりだ。もう俺は今日、竜田揚げの口になっている。それも、その辺の食堂や居酒屋のものではない。多希が作ったそれを食べたいのである。だから、彼のその顔には気付かないふりをして、残りの仕事に集中する。やがて彼も諦めたらしく、やたらと舌打ちしながら自分の仕事に戻ったようである。何にせよ、これで俺の夕飯は守られた。
本日は竜田揚げと大根の梅昆布和え、そしてきのこの味噌汁なり。絶対に美味い。楽しみだ。
JR仙台駅から仙山線に乗って愛子駅へ。約三十分揺られながらも頭の中は晩飯のことでいっぱいである。竜田揚げなんて、母親が作ってくれたことなんてない。せいぜい総菜だ。我が家の現役主婦が回避するそれを、多希は作るのだという。さすがに総菜ではないだろう。ないよな? いや、仮に総菜だとしても全然良いんだけどさ。
そんなことを考えながら車内を見回すと、どっぷりと疲れた顔をしてシートに身を沈めているサラリーマンと目が合った。年齢は俺よりもいくつか上だろう。何だかその目が「自分だけ座って悪いな、後輩よ」と語っているように見える。いやいや、お構いなく。そりゃあ俺だって身体は疲れてますけど。でもこれから、めっちゃ美味い飯食いますんで、全然大丈夫っす。あっ、先輩も奥様の手料理を召し上がるんですよね? なんて、脳内でそんなメッセージを送ってみたりして。全くの他人だし、彼が既婚者かどうかなんてわからないのに。
とにもかくにも、目的の駅まで運悪く座席に座ることこそ叶わなかったわけだが、そんなものは屁でもない。俺は何なら金曜のこの時間が一番元気なのだ。美味い飯ってやつはすごいもので、食ってもいないのに『食える』というだけでパワーになるらしい。目の前にぶら下げられている揚げたて(推定)の竜田揚げでフルマラソンもイケそうなほどに。いやいや、
そんなことを考えていれば三十分なんてあっという間だ。電車は駅へと到着し、数人の下車客と共にホームに降りる。
スーツをハンガーにかけ、ざっとシャワーを浴びたら普段着に着替える。財布と家の鍵、それからスマホをポケットに突っ込めば準備は完了だ。髪は濡れたままだが歩いているうちに乾くだろうから問題ない。スニーカーを履いて部屋を出る。たぶん滞在時間は二十分もなかっただろう。多希は「そんなに急がなくても家出る時に連絡してくれりゃさ」と笑うけれど、こっちはこっちで空腹なのである。この飯のために女性社員から回って来たお菓子も我慢したのだ。ちなみにそれは俺のデスクの中でこの週末を過ごしてもらうことが確定している。月曜のお楽しみだ。
そういうわけで、気持ち早足でコンビニに寄り、発泡酒とチューハイを数本、それからアイスを二つ買う。ツマミもあった方が良いのではと買って行ったこともあるのだが、「俺のツマミじゃ足りねぇってか」と冗談混じりに凄まれてからやめたのだった。
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