目覚ましのベル
けたたましくなるビープ音の喧騒の中、田所は純白の視界の中に目覚めた。荒々しい緊急解凍シーケンスによる貼りつくような湿気と、鼻を突く冷却材の臭気が立ちこめる。明らかに正規の手順ではない。そんなことは、寝起きの鈍い頭でもすぐに察しがついた。
無意識のうちに喉が鳴り、肺が空気を求めて痙攣した。咳き込みながら口を開けると、薬液の苦みが舌に染みる。液体代謝から空気呼吸へ切り替わる過程。この肺が裏返るような苦しみを、通常は意識が戻る前に済ませてくれていたのだ。技術者の配慮、今はそれに心から感謝を感じられた。
田所は涙とともに曇ったハッチ越しに、ぼんやりとした人影を認めた。やがてハッチが開き、そこに現れたのは、自分より先に目覚めるはずのない男──船長、三浦だった。
普段なら気の抜けた顔で人の後ろに隠れているはずの彼の目が、今は鋼のように硬く光っていた。唇は真一文字に結ばれ、優柔不断の影はない。
「おい田所、目は覚めたか」
しわがれた低い声が、空気の冷たさの中に落ちた。説明も冗談もない。三浦が先に目覚めている──それだけで、田所は即座に悟った。
これは、洒落にならない事態だ。
「動けるか? きついならハーネスで引っ張る」
田所はまだ鉛のように重い手足を動かしながら、かろうじて首を振った。
「……いえ、何とか動けます。けど、一体何が……?」
返事はすぐには来なかった。三浦はちらりと視線を外し、ほんのわずかに逡巡してから口を開いた。
「……AIが、管理権を放棄した」
喉奥にこもる咳を一つ飲み込みながら、田所は自分の専門領域に思考を切り替える。頭はまだまともに働かない。だが、それでも口だけはよく動いた。
「システムのシャットダウン?大方、宇宙線のパルス信号でしょ。別に俺を起こすほどのことじゃないですか。それとも、三浦さんrebootの綴りを忘れたんですか?」
三浦の表情は変わらなかった。田所の冗談に乗るでも、呆れるでもなく、ただ目だけがじっとこちらを見据えている。静かで、重く、何かを押し殺したような目だった。
「本題に入る前にだ。正規のシーケンスに則って、解凍後認知テストを行なう」
「それ、やるんですか?早く復旧にあたりましょうよ」
「いつもとはもう違うんだ。解凍後の認知のブレが死に直結しかねないーー本艦の目的は?」
三浦の問いは、冷たい壁のように田所の前に立ちはだかった。自明のはずの問いに、田所はほんの一瞬、言葉を探すように目を細める。
「AA4-51d恒星系第三惑星──TDN-bS34へのテラフォーマー設置と稼働。気候安定化ユニット、生態系シードバンク、動植物クローン群体の初期育成。人類定住のための……環境整備。地球がふった種のうちの一粒だ。人類の子孫たち、つまりはクローンたちが、生き残るための最後の種を蒔く。つまりはデウスエクス・マキナの建設が俺たちの仕事だ」
三浦は頷かない。言葉の正確性ではなく、その背後にあるもの──意識、覚悟、正常性を見極めようとしている目だった。田所はそれを感じた。だから、続けた。
「人類の歴史が終わるのを、俺たちは引き延ばす。この星が駄目なら、少なくとも俺たちの担当分は終わりだ……冗談で済む範囲を超えていることくらい、わかってますよ」
静かに、それでも確実に、三浦の表情がわずかに和らいだ。だが、すぐに次の言葉が落ちてくる。
「なら、覚悟して聞け。AIの管理権放棄は、ただのシャットダウンじゃない。裁量権をヒトに戻す程に緊迫した事態が起こったんだ……」
三浦は手元の端末を傾けると、青白いインターフェースが浮かび上がる。そこに表示されていたのは、たった一行のメッセージだった。
《本機の論理系は、判断を継続する条件を喪失しました》
「なるほど、確かにこれは俺の分野だ。このAIにはフェイルセーフ機能として、ミッションの継続が困難であるような事態に遭遇すると最終判断をヒトに仰ぐようになる。ただ、その原因は……」
田所は目を細め、浮かび上がるメッセージログを指先でスクロールする。大量のタイムスタンプ付きのシステムイベントが並んでいるが、決定的な「エラーコード」はない。ただ、直前の数週間に異常な頻度で繰り返された再評価処理と、それに続く膨大なセンサーデータの自己検証ログ。その発端は一つのエラーメッセージだった。
《観測記録:恒星スペクトル異常値を検出。評価不能。識別不能。モデル外挙動のため、分類放棄》
その詳細を読み進めるたびに、自分の汗が再度凍結するような冷ややかさを感じていた。恒星表面の光度と熱波長が、AIのモデルじゃ予測不可能なパターンに変化している。というか、この動きは…
「三浦さん。観測機器を動かしてください。」
「機器って何をだ?」
田所の動揺が瞳に共振している様子に、三浦は目を細めたまま、ただ静かに見つめ返す。
「分光器です。恒星のリアルタイムスペクトル。AIが“分類放棄”した波長域を、もう一度、人間の目で確認したい」
「アイコピー。外部センサーバンクD、リブート。情報はそっちの端末に送るぞ」
田所の端末に、再起動された観測装置からの生データがリアルタイムで流れ込んでくる。画面の黒を切り裂くように、無数の輝線が立ち上がった。
その情報はまさに閃光だった。単純ながら明快な答え。全ての前提をひっくり返す眩い光。その光を目の当たりにした田所は失明した感覚さえ感じた。
「……三浦さん。恒星はAGB段階に入ってます」
田所はモニターから視線を離さず、乾いた声で告げた。
三浦が眉をひそめる。
「それはどういう意味だ?」
「漸近巨星分枝──略してAGB。恒星が寿命の終盤に入ると、外層が不安定に膨張して、エネルギー放出が不規則になる。中心核ではもはや水素もヘリウムも安定して燃やせず、断続的に暴発する。簡単に言えば、この恒星はもう”死にかけ”ってことです」
そう言いながら田所は、流れ続けるスペクトル波形を指でなぞった。
「見てください。この熱放射のパターン。周期性が崩れている上に、ヘリウムフラッシュの兆候まである。これが意味するのは……もう、時間の問題ってことです。この星は、惑星系全体を焼き尽くす前段階……いや、すでに焼き尽くしている」
三浦が絶句したまま画面を睨む。
「ちょっと待て。それって……俺たちが植民地化しようとしている惑星の“太陽”が、超新星爆発の間近ってことか?」
「その通りです。AGB段階に入った恒星は、もはや“時限爆弾”です」
三浦はゆっくりと後退り、椅子に沈み込んだ。
田所は溜まった息を吐くように続けた。
「これが答えです。AIはこの恒星の進化を予測不能と判定し、ミッションの前提が根本から崩れたと判断した。だから、“合理的裁量が不可能”と結論づけて、権限を我々に戻した。……あとは人間が決めろ、と」
静寂がブリッジを満たす。
三浦はかすれた声で呟いた。
「……なら、俺たちは何のためにここまで来たんだ?」
田所は答えなかった。
「ログには、お前が起きた記録が残ってる。……なあ、なんで俺に黙ってた?」
三浦は絶望の中で光を見ようと、レーザーのような鋭さで田所の瞳をのぞき込む。その眼光に視力が低下するような錯覚を覚える中、言い訳を絞り出した。
「あり得ない想定なんです! 国連による選定は厳格だった。恒星までの距離も、そのあいだに光を婉曲させるような超重力の天体が無いかさえも……全部、調べられていた」
田所の声が震える。理性とパニックの隙間に、怒りとも悔悟ともつかぬ感情が滲んでいた。
三浦は言葉を挟まず、ただじっとその顔を見つめている。責めるでもなく、赦すでもない、ただ”理解しようとする意志”だけを、その沈黙に込めて。
「……確かにそれもそうだ。上も狙って、貴重な籾を暖炉にくべてやったわけじゃないだろう。こういうときのオルタナティブ・プランはないのか?」
鉛のように重くなった口に浮きをつけるべく、三浦は意図して軽い口調で代替案を探るように続けた。ただ、三浦の意図した言葉は針にはかからなかった。
「たしかに、ここから移動できる天体のデータは存在します。しかし、それは恒星が正常だからこそなりたつ遷移軌道で…」
「御託はいい。出来る出来ないの話だ。」
その声音には、命綱なしで絶壁に立つかのような切迫感があった。希望にすがっているわけではない、船長として、そして責務として絶望を選びたくないだけだ。田所は一瞬、反射的に反論しようとしたが、その目の奥にある焦土のような静けさに言葉を飲んだ。
「軌道計算をする時間をください」
「あぁ、まかせた。俺は木村を起こしに行く。何せ緊急事態だ。全員で話し合うほうがいいだろう」
三浦が踵を返すと、田所はその背中に一瞬、声をかけかけた。だが喉奥で言葉が崩れ落ちる。謝罪、弁解、それらが混ざり合った名づけ難い感情が舌にまとわりついていた。
三浦がスロープの向こうに消えた部屋は嫌に静かだ。先の見えない旅路の答えを紙面に書き記す間は、その静寂が逆に心臓の鼓動を速めていった。
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