第四部 水の果て、未来の岸
第1章 偽りと陰謀の渦
1章-1
どうやって、あの朝議の場から帰ってきたのか。
気が付くと、スーインは右大公宮の執務室の長椅子の上にいた。
「スーイン?大丈夫か?」
イフラームが隣に寄り添って座り、背中をさすってくれている。
人払いされている室内には、暖を取るための炭火のはぜる音だけが静かに響いている。
「イフラーム……ありがとう……」
ようやく絞り出した声。途端に堰を切ったかのように涙があふれる。
「事態がここに至って、まだ和平のために火の国へ向かえと……この国の廷臣は私に死ねと言っている……」
朝議の場から、うつろな目とおぼつかない足元でふらふらと帰ってきたスーインを見たイフラームは、サラに指示をして朝議で何があったかを調べさせた。だから、何が起きてスーインがこのような状態に立ち至ったかは、知っている。
だがイフラームは、あえてスーインに話をさせることにした。
好きに話せ、と伝えるために、抱いた肩をぽんぽん、と軽く叩く。
「火の国が……ザハルが本気を見せてきたから、このところの国境付近の火の国騎士団の展開具合と、小競り合いの頻度の上がり方の証拠を見せながら、こちらも防衛を固めねばと話して……西方辺境隊を火の国国境の南方辺境隊に合流させることには勅許を得たけど、でも戦を避けるよう、まずは火の国と交渉するのが条件だって……アーサーが……」
時折嗚咽を交えながら、ぽつぽつとスーインは話す。
流した涙の幾粒かが、肩を抱くイフラームの手の甲にぽつん、と落ちる。その涙の粒の数だけ、イフラームはスーインの絶望を知った。
「水の国から出した、水路を交易路として使う対案は拒絶する、って通告があったんだから、もう、火の国とは断絶したってみんな、知ってるのに……!」
対案が突き返された以上、それは事実上の和平交渉の決裂だ。
この状況で面会を求めれば、最悪首を落とされて首だけ帰国、もあり得る。
まして火の王、ザハル。あの苛烈で豪放な性格の王なら、その手段は当たり前にやってのけるだろう。
「わらわは……わたしは、ここまで、だ」
傑出した
やはり他ならぬアーサーに、死地に行くよう宣告されたことが、堪えているのだろう。
イフラームは、胸の奥を突かれたかのような痛みを感じた。
「スーイン……少し眠ろう。疲れているのだ。疲れているときに考えてもろくなことはない」
イフラームはスーインを抱きかかえると、寝室に向かう。
静かに控えるサラに、家族と騎士団の腹心の部下であるカイル、キリアンを集めておくようそっと耳打ちした。
**
スーインを寝かしつけたイフラームは、また執務室に戻った。
「エリシア殿、よく王宮を出て来れましたね」
その場にエリシアがいることに気が付き、イフラームは目を見張る。
「わたくしにできないことなど、ないわよ」
そううそぶくエリシアを筆頭に、エルディオと騎士団副団長のキリアン、カイルが揃っている。土の国からまだ帰還できていないユーリだけが、この場にいなかった。
「それはともかく、今更の和平交渉よ。今ユーリがいないのは痛いわね……」
「それはしょうがない。やれることをやろう」
そうつぶやくエルディオに、エリシアが早速暗い声で答える。
「でもこの交渉に、勝算なんてないじゃないのよ……」
「残念ながら、エリシア殿の言う通りだ」
イフラームの冷静な発言に、その場は静まり返る。言外に言っているのは、スーインの死……
その場にいる者たちは、みな棒を飲んだように押し黙る。
「冷たく聞こえるかもしれないが、まずは状況を見定めないとならない。火の国との現状は、断交状態だ。この状況で今一度交渉を申し入れるのは、本来は自殺行為なのだから」
「じゃぁどうすれば!」
エリシアがたまらず悲鳴のような声を上げる。
「逃げるか?」
エルディオがぽつんともらす。それが受け入れられないことは重々承知で。
「そんな選択肢、姉様がとるわけないじゃない」
案の定、エリシアを筆頭に、スーインの戦術を熟知しているカイル、キリアンの二人が大きくうなずく。
「現実問題、火の王と対面したら打ち手はないだろう」
イフラームが重い口を開く。
「だからエルディオ殿、いい線をいっていると思う」
その場にいる人間の目が、イフラームに集中する。
「スーインのことだ。防衛増強のために火の国と再交渉しろ、と陛下に言われたのなら、絶対逃げない。最低でも交渉の申し出はするはずだ。ここまでは疑いようがない」
イフラームはいったん言葉を切り、その場を見渡す。
全員が大きくうなずくのを見て、大きく息を吸い、イフラームは続ける。
「交渉を断られたのなら、それが一番いい。スーインも申し入れはした、という言い訳は立つ上に、命を危険にさらすこともない。
だが問題は、申し入れを受け入れられた場合だ」
「再交渉を受け入れられたら、行くしかない……」
「そうだ、エルディオ殿。止められない。だから、そこから我々は『逃がす』方法を考えるしかない」
「暗衛隊を使いますか?」
キリアンが騎士らしく、武力面の提案をする。
「無論だ。ただ……スーインが全幅の信頼を置くサラやエマは、出せない」
団長クラスの二人を出せないのは、大きな戦力ダウンとなる。
だが二人には、これからも水の国で続いていく右大公家を守り続ける大きな責務がある。右大公家の内務を司るものとして、イフラームは二人を出すことに同意するわけにいかない。
「では、ロンを使って」
「エリシア殿、それもだめだ。ロンは今、ゼスリーアの動きを見張っているだろう?それも重要な任務だ。外せない」
「そんな……」
「カイル、キリアン。この三人のすぐ下の実力のもので信頼を置ける暗衛を見繕ってくれないか?」
二人は顔を見合わせる。言葉は交わさずとも、それが非常な難問であると互いが思っていることを確認する。
なぜなら三人の能力は図抜けている。この三人に肉薄できるような実力のある暗影など、まだ育っていないのだ。だが。
「承知しました」
カイルが目を伏せて答える。選ぶしかないのだ。
「でも……暗衛だけで足りるかしら?」
「エリシア様。暗衛が国境を越えさせてくれれば、あとは騎士団で引き受けます」
キリアンが力強く断言する。しかし、その「国境を越えさせる」ことが至難の業なのだ。
「結局……有効な手は見つけにくいわね」
エリシアの一言に、その場に沈黙が下りる。
夜も更けて冬の寒気が一段と強まり、場の空気をより張り詰めたものにしているようにさえ、エリシアは感じた。
「義兄上、天理はいつどのように発動するのでしょうか。時間を稼ぐことで、火の国が天理の禁忌に触れて背いたとみなされ、火の国は自滅してくれるなら、それも一つの手段かと」
沈黙を破り、エルディオがまた別の側面からの解決策を出す。
「それもまたわからぬ……天理がいつ『天理に触れた』と判断するかは、人知が及ばない」
イフラームは苦渋の表情を浮かべる。
「今回、火の王が触りそうになっている天理は『4氏族はお互いに属しない』だと思われるが、これはここまで簡単に書かれているがゆえに、解釈の余地が大きすぎるのだ」
天理は、「こうである」とは言うが、それについての具体例や回答は指し示めさない。
今までの命知らず――例えば、ザハルのような――が天理に挑戦してきた結果、何となく「こうであれば天理に背かず、大丈夫だろう」という認識が各国の王家、両大公家にて収集されている、程度だ。
「そうね……『属さない』、ってじゃあ一体、何をもって属していないのかはわかりにくいわよね。天理ってご無体だわ」
エリシアが若干ふくれっ面をして腕を組む。
「『互いに益のある条約を結んでいれば、属しているとはみなされない』ということだけは、わかっていますがね」
「だから、この条約案は表面は相互扶助みたいな書き方なんですね。よく読むと、火の国の実効支配になってますが」
机の上に置かれた火の国からの条約案を写した紙をとんとん、と指先で叩きながらエルディオがつぶやく。
「でもそんな書面の言葉選びだけで、天理をごかまかせるのかしら?」
「火の国、いや火の王ははかなり危険な綱渡りをしているでしょうね」
エリシアの疑問に答えると、イフラームは小さくため息をついた。
「風の民の件で火の国は痛い思いをしているはずなのに、なぜザハルは止まろうとしないのか……」
小さなイフラームのつぶやき。それをエルディオは聞き漏らさなかった。
「義兄上。お辛いことを思い出させ、申し訳ない」
キリアンがはじかれたように顔を上げる。忘れていたが、あの焼け落ちた廃墟で倒れていた人は、そういえばイフラーム様だった――
「よいのだ。そういえば、倒れていた私を見つけてくれたのは、キリアン殿だったな」
「は」
キリアンは軽く頭を下げる。
「そうだな……あの時は、おそらくザハルはあんな火事を起こすつもりはなかっただろう。
私も、あの火があんな業火になるとは予想もしていなかった」
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