5章-2

 死産となった子が男子であったことは野火のように速やかに広がり、廷臣たちに大きな落胆を与えた。


 アスリーア所生の第一王子が毒殺されたことで、王太子冊立の望みは潰えたと、一旦は皆が深く落胆した。


 だが、間もなくゼスリーアが男子を懐妊したとの知らせがもたらされ、空気は一変する。失われた希望が再び目の前に現れたとあって、宮中は大いに沸き立った。

しかし、その喜びは長くは続かなかった。



生まれてくるはずだったその子は、結局、死産となったのだ。

 一度落とされ、すくい上げられ、再び奈落へ突き落とされる——その落差はことさら大きく、宮中に広がった失望は、最初の落胆よりもずっと深く重かった。


 しかも、今は王統を継ぐ者が居ないことを盾に取った火の国が、属国化を迫ってきている非常事態だ。王子誕生は、この非常事態の解決にもなり得ただけに、死産の事実は落胆だけでなく大きな不安も広げた。


 状況を憂慮したアーサーは、一週間ほどの朝議の停止を決定した。

 薨去ならともかく、死産にすぎない状況での朝議の停止は異例ではあったが、迷信と伝統の妄言で揺れるぐらいなら、スーインとの密議を行うことをアーサーは選んだ。


 数日におよび、アーサーとスーインは長子相続の検討を重ね、法典の草案をまとめた。

 密議の最終日、スーインはイフラームとユーリがまとめた法典の草稿をアーサーの前に提示した。


「朝議にかけて最後にアーサーが御璽を押せば完成よ」


「そうだな」


「最後の関門はアスリーア様だけど……」


 セザリアンは、ゼスリーア死産から憔悴してしまい、今はまだ枕から頭が上がらない状態が続いているとのことだった。

 長患いしていた左大公家当主――セザリアンの父――も、今回のことが相当打撃となったらしく、昏睡する時間が増えているという。つまり、左大公家の決定権を持つ二人が正気を保っている状況でなく、左大公家の決定権の代行ができるのは、現在アスリーアのみとなってしまっている。


 過去の例を振り返れば、特に戦乱の際など、男子が不在の時に妻や長女が後継として決定権を代執行した例は珍しくない。今回も、長子継承を承認する代執行については全く問題ない。


 ただ、これを通してしまったら、アスリーアの二人の娘たちの将来を大きく変える。 ——長子相続の原則を認めれば、すなわちアスリーアの長女であるアリアーナ第一王女が、近く立太子する、ということに納得してもらってからでないと、アスリーアに左大公家の決定権の代執行をしてもらうわけにはいかない、とスーインは考えている。


 それは、アーサーも同意見だった。


「エリシアとユーリが、立太子の説得の下地は作っておいたわ。この先の一押しはわたしかアーサーか。どうする?」


「余が行こう。王家の問題だし、余の妻で、娘の話だ」


「わかったわ。任せた」


 事務的に答えながらも、スーインは胸の奥に何か小さなものが刺さったことを自覚した。


「これで、ひと段落かしら」


 残るは火の国の問題。と心の中でつぶやいた時。


「……なぁスーイン。俺には本当にもう男子はいないのだろうか?」


 突然の思ってもいなかったアーサーの質問に、スーインは瞬間ひるんだ。


「わたしが知るわけないでしょう。心当たりのある女性たちに聞いて歩けばよいじゃないの」


「だから、聞いているのだ」


 静かに、だがまっすぐアーサーは問いを重ねた。

 スーインは、そのまっすぐなアーサーの視線に動揺する。だが。


「いないわよ」


 スーインはまっすぐアーサーを見返して答える。

 二人の視線がぶつかり、しばしの沈黙の帳が下りた。

 

「そうか……」


 その答えに、スーインは目を伏せた。これ以上目を見つめてはいられなかった。――ごまかせてない。


「そなたがそういうなら、信じよう」


 目を伏せたスーインを見て、アーサーがどう思ったのか。確かめたいが、確かめるのも怖すぎる思いの間にスーインは引き裂かれた。


「では、この話は終わりで。今日の議題も終了でよいかしら?」


「あぁ」


 アーサーの短い返答を待つことさえ焦れて、スーインはあっという間にアーサーの執務室を出ていった。



**

 逃げるように執務室を出ていくスーインの背中を、アーサーは黙って見送った。

 

 エルディオが「サリフは自分の子である」と宣言したあの日から、自分の胸に根付いていた疑念が、疑念ではないことをようやく確認できた。


 疑念が根差した当初は、長子相続の原則など法典化せずに、サリフを王太子に冊立するようにスーインを説得するつもりだった。


 自分は、愛した女、スーインを娶って王后に冊立することがかなわなかった。王太子という地位を捨て、ただ一人の男としてスーインに向き合うこともできなかった。

 だが、今、そのスーインとの間に男子がいるのだとしたら?せめてその子だけでも王太子としたい。その思いが湧き上がってくるのは、避けられないことだった。


 しかし何日間も逡巡するうちに、スーインがなぜ子供の存在を隠したのか、というところに思いが至った。


 エルディオまで出てきて、朝議の場でかなり筋の通った証言したということは、かなり前から、つまりサリフが生まれる前から右大公家ぐるみで周到に計画してきたものだろうし、今の今まで隠し通してきたということは、それほどスーインの隠す意志が強固であるということを示しているのであろう。


 なぜ隠したのか、は真意はわからない。

 婚姻できぬ間柄でできてしまった子の立場は弱い。それを避けるため、右大公の強力な庇護の下に置くためにエルディオの子にした、というのはわかりやすい答えだ。だが、本当にそれだけだろうか?


 この数日の密議で、何回も息子の話を聞きそうになった。息子がいるなら彼を王太子にしたいと説得したかった。

 貴族の女なら、自分の子を王にしたいはずだ。そういう思い込みもあった。


 しかし、淡々と、かつ強固な意志で長子相続を進めるスーインを見て、息子の王太子を望むのはスーインの意思に反するのでは、と思い直すようになった。


 だから、最後に、署名するだけの法典が出来上がり、自分の逃げ場がなくなってから、スーインに本当に息子がこの世に存在しないのかを問うた。


 果たして、スーインは決然と否定した。なるほど。スーインの意志がそれならそれでいい。


 俺は……スーインが望むように行動できるように、いざとなったら国を挙げてスーインを守れるように、王になったのだ。


 余を王にしたのはスーインだ。


 そのスーインが願うことなら、余はそれを守ろう。


 ただ一人の男としては、最後に目を伏せて戸惑いを見せたあの表情だけで十分だ。


 アーサーはすべての準備が終わったことも含め、満ち足りた笑顔をこぼした。



**

 まだ気の早い暖かさがやってきた。


 長子相続の目処を――廷臣の工作も含め――終えた安堵もあり、暖かさも手伝い、夕暮れからバルコニーにて、イフラームと酒を酌み交わすことにした。


 疲れているせいか、ちょっと酔いが回るのか早いわ。


 そう自覚はするが、水面を渡って吹く風が心地よく、スーインは酔いが回るままにした。


 穏やかに流れる時間は、しかし終盤に乱された。


「お邪魔していいか?」


 相変わらずの神出鬼没。

 そう思う間もなく、スーインは脊髄反射のように返答を口にする。


「良くないといったら帰るのか?」


 そして手で、サラに攻撃は止めるように合図をだす。


「ま、帰らないけどね」


 言うなり、空いている椅子にザハルは勝手に腰掛け、さらに勝手に果実酒のはいった玻璃ガラスの盃を手に取り、一口、口をつけた。


 しかし、なぜこいつはこうも神出鬼没なのか。以前から思っていた疑問が頭に浮かび、そして反射的に答えも閃いた。


「異能持ちか」


「おっ、当たり」


 言うなり、ザハルは人差し指を掲げ、その先に小さな炎を灯してみせる。

 紛うことなき、火の民の異能だ。


 だか次の瞬間、一陣の風が吹き抜け、ザハルの指先の炎を消し去った。


 ザハルの口笛が響く。


「やっぱりな。あのときはごまかされたけど、風の民はあんたが見つけてたんだな」


 ザハルはスーインに語りかけてはいるが、目はひたとイフラームに据えている。


「だから何だと言うのだ」


「さすがの目の付け所。だけど、先にオレが見つけてたと思うんだけどな」


「優先権を主張したくば、見失わないことだな」

「火の王。そろそろ礼儀をわきまえられよ」


 違う内容ながら、スーインとイフラームでザハルをけん制する言葉を同時に発する。 


 さすがのザハルも玻璃ガラスの盃を置くと姿勢を正す。


「火の王、ザハル。たびたびの無礼、失礼した」


 しかし、すぐにふんぞり返ると腕を組み、尊大な態度に戻る。


「しかしな。無礼を働いてでも近づきになりたいほど、あんた達には興味があるんだよな」


 にやっと笑うと、今度は身を乗り出してテーブルに肘を置き、イフラームに顔を向ける。


「あの炎からどうやって逃げた?」


「答える義理はないかと」


 間髪入れず、イフラームは答える。


 ザハルは予測した答えに自嘲気味に笑う。


「ま、そう言うよな。追及したいが時間がない。単刀直入に聞く。

 右大公。火の国に来てくれないか?特別に宰相の地位を用意する。身位は両大公家より上だ。なにより、火の国は実力主義の国だ。実力さえあれば、他の民だからとか、女だからとか、そんな理由で侮ったりはせん。そしてあんたは、侮られないだけの実力はしっかりある。動きやすさは保証する。

 そして、今後、国境付近の小競り合いは火の国が責任持って公平に鎮圧するし、国境を越えて攻め込むことはない。どうだ?」


 今までのふざけた雰囲気は消え、真剣にスーインに話しかける様子に、スーインも脊髄反射のような否定の言葉を投げかけるのを自重した。


「ネフェルナ殿も同じ事を問うた。その時の回答は、ネフェルナ殿を通して聞いていると思うが、もう一度言う」


 言葉を切ると、強い瞳でザハルを見据える。


「ではそなたは、同じ条件を、例えば土の国が提示してきたら受けるか?受けないだろう?

 わらわも水の民としての誇りを持ち、水の民として民を守るために動いておる。それは、条件で決めたことではない。水の民だから水の民のために働く。ただそれだけのことで、そのためなら今の位置にいるままが一番だ。

 ゆえに、そなたらの誘いに乗ることはない」


 スーインの話を聞いたザハルは、ふっと笑みを漏らすと再び姿勢を正した。


「あんたの答えは気に入ったが、来てくれないのはとても残念だ。

 ただ、こちらも火の国を代表して依頼したつもりだ。依頼を断る、というのなら、こちらもそれなりに対応することになる」


「それは脅しか?」


「脅しではない。事実だ。俺が交渉決裂と狼煙を上げれば、国境に騎士団が展開し、いつでもなだれ込める態勢にする。もう、決まっていることだ」


 よいのか?とザハルが目で問う。


「水の国とて騎士団はある。国境警備隊は増援させておる。返り討ちが怖くなければ好きにせよ」


 静かにスーインが答える。


「そうか……残念だ」


 交渉決裂。ザハルはすらりと立ち上がった。


「あんたと並び立って、火の国を導く未来を見たかったのだがな」


 遠い目をして空をにらみ、呟いたザハルは、顔をめぐらせイフラームにひたと目を当てる。


「風の民。表に立ってはいないみたいだが、その位置で右大公をサポートするのも相当楽しかろう。あんたも果報者だな」


「スーインに引き合わせてくれたことだけは、火の国に感謝しよう」


 ザハルはイフラームに向かって軽く笑うと、背を向けた。


「ザハル。今までは大目に見てきたが、今後王宮に出没したら、容赦は


 スーインは、その背中に言葉をかける。

 ザハルはわかったというように、片手をあげてひらひらと振り、消えた。


「とうとう……全面対決せざるを得ないのね」


 遠くを見据えてつぶやくスーインを、イフラームは黙って抱きしめた。

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