4章 囚われの継承

4章-1(4章終)

 夕陽を受けて赤く染まる玻璃ガラスが、まるで燃えているかのようだ。

夕暮れ時の水面を渡ってくる風は、秋の気配を帯びていて肌を刺すほど冷たい。だが、今の怒りの炎が沸き立つセザリアンにはむしろその冷たさが心地よかった。


「くそっ、くそっ、ゼスリーアの奴め!」


 歩く足にすべての憎しみを込めているかのように、荒々しく回廊を歩く。

ふと前方に目をやると、回廊の向こうに父の執事が静かに立っていた。途端にセザリアンの怒りが一瞬で引き、渡ってくる風の冷たさを自覚する。


「親父の呼び出しかっ!」


 セザリアンは先回りして吐き捨てるように質問する。黙って執事は頭をたれる。肯定の仕草だ。


「ふんっ。動けないくせに、情報だけは早いんだなっ」


 負け惜しみ。父がいないところでしか口にできぬ言葉だとはセザリアンは自覚している。それを執事に見透かされていることも。

 だが――どうすればいい? 何もうまくいかないのは、後ろから指図してくる父のせいではないのか。セザリアンはいら立ちで片足を踏み抜く。


 ――俺は、何も決めさせてもらっていないではないか!――


 怒り、苛立ち、悔しさ。だが父の前に出てしまえば、セザリアンのすべての感情は無力になる。


「セザリアン」


 父の寝室に入ると、その人はすでに体を起こして待ち構えていた。


「お呼びでしょうか」

 頭を垂れるしかない。恭順の意を示すしか、道はない。


「お前は姉妹の統制も取れぬのか」

「そういうわけでは……」

「では、今日のゼスリーアの行動の理由を説明せよ」

「わかり……かねます」


 姉の子を、あのような目立つ場で手をかけようとするなど、どうやって想像すればいい?

 そもそも今日狙われたのは王女だ。王女など、後継者にはならない。そんなもの、ほおっておけばよいではないか。セザリアンには理解できない。


 もともと、セザリアンはゼスリーアを後宮に入れるのは反対だった。姉妹で寵を争うことなど、そもそも外聞が悪い。

 それに、正妃とはいえ継室の子であるゼスリーアは、何かにつけ正妃所生の、アスリーアを敵視し、彼女への優越を示そうとしたがる。はっきり言って問題の火種にしかなりえない、とセザリアンはそう思っていた。


 だが――

「家長たる者、妹を抑えられずどうする。それより王子を上げねば意味がない」

 父の一言で、すべては押し切られ、ゼスリーアは意気揚々と入宮した。


 だからゼスリーアが起こす問題は、自分の問題ではない。当主であり入宮をごり押しした父の問題だ。セザリアンはそう認識している。

 したがって、ゼスリーアが巻き起こす問題は、父が責任を取るべきではないのか。想像通り、ゼスリーアは入宮以降……いや入宮以前から、問題を引き起こし続けた。なのにその度にセザリアンが父に呼び出され、叱責を受け、折檻される。なぜだ。なぜ問題が起きたら責任を取るのが自分なのか。


 問いたい質問は常に胸の奥に渦巻いているのに、しかし、そんな反抗や疑問の言葉を、セザリアンは何一つ体の外に出すことはできない。


「妹の行動の統制をとれ。そう言っておるだろう。わからないとは何事だ」

「そう言われましても……」


「つまらんな。お前はわかりきった仕事しかできんのか」


 まただ。またそれだ。

 ぎり、とセザリアンはこぶしを握り締める。


「父上のおっしゃる通り、やるべきことはやっております。

 姉妹での後宮入りなど、外聞の悪い仕事もこなしました。他にも…………!」

 たまりかねて、声を上げる。

「だまれ。ではなぜ王子がいないのだ」

「居ました……つい、この間までは」

 居たではないですか!セザリアンの心の叫びは、届かない。

「そうだ!過去形だ!なぜたった一人の王子を守れなんだ!」

「……わかりませぬ……」

「なぜわからぬ!肝心要に来ると、いつもそちはわからぬばかりではないか。……やれ」


 隅に控えていた執事がセザリアンに歩み寄る。

「失礼します。当主のご命令ゆえ」


 執事は棒を構えると、容赦なくセザリアンの背中を打ち据える。

 棒の一撃ごとに、皮膚の下から怒りと屈辱が滲み出すようだった。五度、六度――いつしか数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほど、容赦のない打撃が続く。気が付くと、その数は十を数えていた。

 だが、痛みよりも、何も言い返せない自分自身への苛立ちが、ずっと深く突き刺さる。たまらず崩れ折れた膝が床に落ちる音は、敗北の鐘にも似ていた。


「いい加減、このしつけをわしにやらせないようにできぬのか。早く王子をあげよ。そして、王太子に冊立するのだ。わしをがっかりさせるな」 

「承知……つかまつりました」

「よいか。いつまでも右大公家に大きな顔をさせておくのではないぞ。あそこの当主はしょせん女子ではないか。女子に負けるとは……」


 女子に負けるとは。


 父の言葉は、刃のように冷たく突き刺さった。

「おまえは、この左大公家の将来の当主だ。政の表舞台に立ち、政を先導するのだ。女の率いる右大公家など蹴散らし、王家も抑えるのだ。そのためには、まずは後宮を抑えよ。ある程度、女どもには好きさせろ。わがままを聞き、虚栄心を満たせば女は操れる。運良く、今は右大公家の女は後宮におらぬではないか。自分の姉妹のみだ、抑えられて当たり前だろう」

 セザリアンは声を失ったまま、無言で拳を握りしめるしかなかった。言い返そうとする代わりに、睨みつけるような視線を父に返した。それが精一杯の反抗だった。


 だが、父の目には微塵の揺らぎもなかった。長年、政の中枢で生きてきた男の視線だ。おまえに口を挟む余地はない――そう告げていた。


 ……俺は、ただの飾りか。自由などない。選択もできない。失敗すれば、責任だけを押し付けられる傀儡か!叫びそうになるのを喉元で押し殺した。ここで声を荒げたところで、父の判断が覆ることなど一度としてなかった。かえって折檻が増えるだけだ。

 水の国の伝統、男子継承をひたすら信奉する。そのためには、どんな障害も取り払う。それが父の信念だった。

 そして、そんな信念を持ち、他を圧倒する父は、成人するまではセザリアン自身の見上げるべき、目指すべき北辰の星だった。


 だが……

 すでに水の国の制度には綻びが出ているのではないか?こんなにも後継者を定められないということは、天理に背いているのではないか?考えてはいけない、とずっと蓋をしてきた疑問が、最近どうしても抑えられなくなってきている。父には絶対にぶつけられない質問だ。

「よいか。くれぐれも女に政を渡すでないぞ。右大公家当主のスーインは遣り手だ。今のお前の力量では簡単には崩せんぞ。もっと力をつけるのだ。所詮女だ、勝てて当たり前だ」

 スーインの名が出た瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 セザリアンは父の言葉に首肯し、父の寝室を辞する。

 自室に戻る回廊を歩きながら、右大公家の現当主、スーインを思い返す。

 セザリアンの一個下の年齢のはずなのに、同じように同じ教育を受け、切磋琢磨をしてきた仲間だったはずなのに、気が付くとずっと上にいるように感じさせる存在。たまに、アーサーとスーインが並び立っていて、自分が一段下に置かれているような錯覚さえ、感じさせるあの女。

 あの、忘れえぬ日。

 成人する直前のことだったか。後宮の庭で行われた弓の試技会。射手として自信があったセザリアンは、近衛団で鍛えた経験の自負もあり、気まぐれでスーインに勝負を挑んだ。だが、彼女は一度も的を外さず、涼しい顔で言ったのだ。

 「私はもう、辺境の地で実戦を経験しているわ。悪いけど、経験量が違うわよ」

 その瞬間、自分がまるで子供の遊戯をしているだけだと思い知らされた。口惜しさと屈辱は、今でも骨の奥に残っている。

 以来、彼女の影を追うように政治の道を歩いてきた。いつか追い越すために。いつか、屈辱を返すために。

 「…………やってられるか」

 呟きとともに、拳を壁に叩きつけた。石壁に骨が軋む感触が返る。

 その痛みは、まるで強烈なスーインへの劣等感を代弁しているかのようにセザリアンは感じた。

 打たれても、命を狙われても、眉ひとつ動かさず政を行うあの女。対抗できる気がしない。気圧され、殺意にも似た感情が胸を焦がす。

「女子に、負けている?俺が…………?」

 だが、それが事実なのだ。否定のしようもない。今日だって、左大公家に過度な責を負わせることなく、見事にゼスリーアの起こした問題に対処した、右大公家の当主、スーイン。

 あの女は――化け物だ。女ではない。では、化け物に勝てる男が、この世にいるのだろうか?

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