ねこまがり
Kanulecq
第1話 猫の癖
引っ越しは、春の終わりだった。
空気がぬるくて、あらゆるものが柔らかく歪んで見える季節。
あの部屋に住むと決めた理由は、他のどの候補よりも「角が多い」ことだった。
引越し業者が帰ったあと、私は段ボールの山に囲まれて、玄関のドアを閉めた。
閉めた音に反応するように、ナユが小さくにゃあと鳴いた。
彼は灰色の体をすっと伸ばし、壁に沿って慎重に歩きながら、新しいテリトリーを探っていた。
私の唯一の家族。
いや、もしかしたら、唯一の“証人”かもしれない。
最初に違和感を覚えたのは、その日の夜だった。
キッチンとリビングの間にある、小さな“角”のことだ。
ナユが――通らない。
いや、正確に言えば、そこだけを妙に避ける。
部屋を移動する際、わざわざ遠回りをしてでも、決してその角の前を横切ろうとしない。
餌の皿をその角の近くに置くと、足を止めた。
座り込んで、まっすぐ私を見てきた。
けれど、その目は私を見てはいなかった。
――その角の、奥の空間を、まっすぐに見つめていた。
私は笑って「何、怖いの?」と声をかけたけれど、ナユは返事をしなかった。
その目があまりに動かないので、つい私もつられてその角を見た。
ただの壁だ。
クロスが少し古く、端にめくれかけた跡があるだけ。
特別なものは何もない。
けれど、“何もないこと”自体が、不自然に思えた。
私はナユを抱き上げ、皿の前に連れて行った。
けれど彼は、背中をピンと張ったまま、体をこわばらせ、私の腕から逃げた。
それから数日は、特に変わったことはなかった。
私も仕事で忙しく、ナユの癖を微笑ましく思う余裕も出てきた。
だが五日目の夜、あの角の奥から、「にゃあ」と声がした。
ナユの声だった。
けれどナユは、ソファの上で私の膝に丸くなっていた。
ぬくもりも、重さも、確かに“ここ”にあった。
そしてナユは、顔を上げた。
――角の方を、じっと見つめていた。
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