第32話 女神の追憶



**【マルセラ視点】**



 これは、遠い過去の記憶。


 百八十年前、私は親に売られた。

 生活の為に仕方がなかったと親は私にそう言った。

 この時の私はまだ十歳。

 状況がよく分からなかったが、私の右足に冷たい鉄球のついた足枷がつけられた時に理解した。


 ──私は奴隷になったんだ。

 この冷たい鎖は、私の命の価値を奪った。

 愛されていなかったの? いらない子だったの?

 何故、私がこんな目に遭うのかと両親を恨んだ。


 この日から、他の奴隷の人と一緒に馬車の荷台に揺られながら、街から街へと買い手を探し、終わりの見えない旅がはじまった。


「笑え、笑顔を作れ」

 奴隷商人は毎日のように、私にそう命じた。

 泣くことすら許されない。

 笑えば殴られずに済む。笑えば食事を与えられる。

 そう思い込むことで、私は心を守った。

 次第に、心の奥底にあった感情は薄れ、笑うことが『生きる術』となり、やがて、それは治らない癖になってしまっていた。

 

 奴隷の私は他の奴隷の人たちよりも、かなりの値が付けられていた。『容姿が良いから安売りはしない』と奴隷商人は言っていた。


 そのため買い手はなかなか現れず、私はずっと見世物として過ごした。

 西大陸を転々と旅人のように移動する。冬から夏まで各町の奴隷商で展示され、秋になるとまた移動する。


 気づけば八年が経ち、十八歳になっていた。

 この頃には、もう奴隷として生きることが当たり前となり両親への怒りなど消えていた。

 昔、そんな人もいたな。ただそれだけ。

 檻の中で私はいつも人形のように笑い、感情を捨てて過ごす毎日。


 他の奴隷は買い手が見つかる人や、途中で病気になり死ぬ人、

 さまざまだが、奴隷達の中に私と同じように長い間、買い手が見つからない少女がいた。

 その子は私が奴隷になってすぐに奴隷にされた子で、今は私とその子が一番の古株になっていた。


 一緒にいる時間が長いせいか、私はその子と色々話す仲になっていた。彼女も容姿が良くて笑顔を作るのが上手かった。

 きっとこの子も私と同じで高い値が付けられているのだろう。

 そんなふうに、子供なりにずっと思っていた。


 ──彼女の名前はモニカ。私と同じ十八歳の女の子。

 モニカは、奴隷でありながらも夢を語る子だった。


「可愛い洋服を着て、お洒落して、好きな人と恋をして、結婚して幸せな家庭を築くんだ!」

 その言葉は、あまりに眩しすぎて、私には夢物語にしか思えなかった。

 それでも、モニカが夢を語る姿を見るのは好きだった。 

 彼女の瞳には、私と違って『未来』が映っていたから。


「ねぇ、マルセラの夢は?」

 そう聞かれた時、私は少しだけ考えて苦笑いしながらこう答えた。

「……暴力を振るわない人に買われることかな」

 それを聞いたモニカは一瞬、言葉を失っていた。そして、静かに私の手を握りながらこう言った。


「それは夢じゃないよ、マルセラ。そんなのは夢でもなんでもない! 夢って言うのはね、誰にも奪われない、心の中に咲く花のことなんだよ。最初は種かもしれないけど頑張って生きて種から蕾、蕾から花になるように育てるの。私たちは奴隷かもしれないけど、心まで奴隷になる必要はないんだよ」


『──心まで奴隷になる必要はない』

 当時の私には、その言葉を理解する事はできなかった。私は、自由になる事すら諦めていた。夢を見る事すら許されないと思っていた。でも、モニカは違った。彼女は、たとえこの鎖に繋がれた世界でも、心の中に自由な空を描いていた。


***


 私は感情を失くした人間だ。

 それは自分でもよく分かっている。

 だけど、そんな私の心が揺れた日があった。

 久しぶりに感じた感情は、どうしようもない程の悲しみと怒りだった。

 あの夜の出来事は、今でも忘れられない。


 次の街へと移動していた時の夜。

 いつもと同じように荷馬車の檻の中で眠りについていた。


 ふと、目が覚めてしまった。

 嫌な予感がして周囲を見渡すと、隣にいるはずのモニカの姿がない。


「……モニカ?」

 小声で呼んでも、返事はない。


 私は静かに立ち上がり、隙間から外を覗き込んだ。

 暗闇の中、遠くで聞こえるのは、男の低い笑い声と、モニカのか細い声。

「やめて……っ」


 私は、心臓が締め付けられるような恐怖に襲われた。

 鳥肌が立ち、震える手を必死に握りしめる事しか出来なかった。

 しばらくして、モニカが戻ってくると服は乱れ、髪はぐしゃぐしゃ。足元はふらつき、体は小刻みに震えている。それでも、モニカは私に向かって上手な笑顔を作った。


「……大丈夫だよ、マルセラ」

 その笑顔は、これまで見たどの笑顔よりも悲しかった。

「……いつから?」

「……ここ最近、ずっと……かな」


 知らなかった。

 毎晩あの男に犯されていたのに、私は気づいてあげれなかった。

 私には何も言わず、ただ笑顔で夢を語っていた。

 モニカの震える手を、私はそっと握った。


「私の前では、無理して笑顔なんて作らなくても良いんだよ」

「こんなの……全然平気だよ……」

 モニカは笑ったまま涙を流した。

 私はただ、彼女の手を強く握り返す事しかできなかった。


 ある街にたどり着いた時の事だった。

 奴隷商人は、荷馬車の檻に入れられていた他の奴隷たちを、町の奴隷取引所に出荷した。

 奴隷は個人の買い手に売るか、取引所に出荷するかの二択しかない。


 しかし私とモニカだけは、ずっとどこにも出荷される事も、誰かに売られる事もなく荷馬車の檻に残され続けてきた。


「……なんでいつも私たちだけ?」

 私がそう呟いた時、モニカはいつものように笑って言った。

「きっと、まだ運命の相手に出会えていないだけだよ」

 でも私は、薄々勘づいている。

 私とモニカは売り物ではなく、この奴隷商人にとって特別な存在なのだと。


 そして夜になると、モニカの泣き声や、苦しげな声が響く。あの汚らしい奴隷商人が、モニカに何をしているのかなんて、考えなくても分かる。私は檻の中で震えながら、ただ耳を塞ぐ事しか出来なかった。


 ボロボロになったモニカが荷馬車に戻ってくる。

「モニカ、大丈夫……?」

 私がそう声をかけると、彼女は笑顔で言った。

「大丈夫、大丈夫! 早く買い手が見つかるように、明日も頑張らなきゃね」

 無理に作った笑顔なのは見れば分かる。

 でも私は、それ以上何も言えなかった。


 ──私は臆病者だったんだ。


 そんな日々が続いて、モニカは体調を崩した。

「ケホッ……ゲホッ、ケホッ……!」

「モニカ、大丈夫……?」

「うん、大丈夫だよ。ちょっと風邪ひいただけ」


 奴隷商人は、モニカが体調を崩していても構わず犯し続けていた。

 そしてモニカも、どんどん弱っていった。

 食事はまともに与えられず、奴隷商人の暴力と欲望に晒され続けたモニカの身体は、限界を迎えていた。

 ある夜、モニカはいつにも増して高熱にうなされていた。

 私は必死に奴隷商人に訴えた。

「モニカ、体調が悪いんです。このままだと死んでしまいます! 薬を頂けませんか? お願いします」

 しかし、奴隷商人は薄汚れた口元を歪めて笑った。

「買い手だって、つかなくなりますよ!」

「心配するな。そもそも、あいつを売るつもりなんてねぇからな」

「……え?」

「お前もだよ、マルセラ」

 奴隷商人は吐き捨てるように言った。

「お前らの値段をバカ高くしてるのは、買い手が現れないようにする為だ。たとえ買いたい奴が現れても、その金額なら売ってやってもいいって程度の話だ。最初から売る気なんかねぇんだよ」


 私は言葉を失った。

 私たちは、商品ですらなかった。

 この奴隷商人は私たちを商品ではなく、性欲を満たす為の道具として側に置き続けるつもりだったのだ。売られる事すら許されず、ただ囚われ続ける存在。


 ──それが、私とモニカだった。


 モニカは、日に日に衰弱していく。

 それでもモニカは、最後まで弱音を吐かなかった。

「大丈夫だよ、マルセラ。この世界のどこかに、私たちを救ってくれる人がいるはずだから」

 そう言って、モニカはまた笑顔を作った。

 その言葉が、笑顔が、私には痛々しくて仕方なかった。


 もうそんな事、言わないで欲しい

 私たちは売り物ですらないのだから……

 モニカの言葉を聞くたびに、私はどうしようもなく辛くなる。


 夜になると、またモニカの泣き声が聞こえる。

 それを聞きながら、私はただ必死に涙を堪えていた。

 助けてあげたい。

 でも私に覚悟と勇気がない、怖かった。

 私には何もできないと必死に自分に言い聞かせていた。


 希望と笑顔を失わないように無理を続けた彼女は、

 限界を超えてしまった。


 あの日の夜明け、私が目を覚ますと

 生死の見分けがつかないくらい、モニカは衰弱しきっていた。

「……マルセラ……どこ……どこにいるの……?」

 掠れた声で呼ばれ、私は慌ててモニカの手を握った。

「大丈夫、ここにいるよ」

 冷たくなりかけたその手に、私は必死に自分の体温を送るように握りしめた。


「聞こえる……?」


「大丈夫、聞こえてるよ」

 

 モニカは微かに微笑んだ。

 その笑顔は、これまで何度も見てきた作り笑いではなかった。


「マルセラ……私……死んじゃうかも…だから最後に…伝えたい…私ね……マルセラが一緒に…いてくれたから……今日まで頑張れたんだよ……」


「やめて……お願い、最後みたいなこと言わないで」


「マルセラ……私…頑張った……よね…ちゃんと…さい…ご……まで…頑張れた…よね……?」


「まだ駄目だよ。一緒にまだ頑張るの! お願いだから死なないで」


「……マルセラが…いてくれて……良かった…いつも…私の…話聞いてくれて……ありがとう…本当に……ありがとう……」


 モニカの目から、大粒の涙がこぼれた。


「一人に…させちゃうけど……ごめんね…私の分まで……自由に……幸せになって……マルセラ…だいす……きだよ…ほんとうに……だい…すきな…わたしの……しんゆ…う…」


「嫌だ……モニカ……置いて行かないで……!」

 モニカの手から力が抜け、その瞳からは光が消えてしまった。


「モニカ……? ねぇ、モニカ……! 嫌だ……行かないで……」

 モニカは最期の瞬間まで笑っていた。

 私は、彼女の夢を心のどこかで否定していた自分を責め続けた。


 モニカ、ごめんね。

 何もしてあげられなくて。

 いつでも奴隷商人に言えたはずだ『代わりに私が』と。

 でも言えなかった。

 怖かった、嫌だった、あの男に体を触られるのを想像するだけで震えが止まらなかった。

 毎日ボロボロになってるモニカを見ても『大丈夫?』と心配だけして、行動に移せなかった。


 ──私は、臆病者だったんだ。


 私のせいでモニカは死んだ。

 涙が止まらない。

 モニカの身体は、あまりにも軽く、まるで今にも消えてしまいそうだった。

 私はせめて、モニカをちゃんと埋葬してあげたいと奴隷商人に懇願こんがんした。


 しかし、奴隷商人はゲラゲラと笑いながら

「埋葬? バカかよ。どうせこの辺りは魔物の巣窟だ。放っておけば勝手に食ってくれるさ」

 そう言って、モニカの遺体を乱暴に荷馬車から放り出した。


「やめて……モニカにそんな事しないで!!」

 私は叫びながら彼女に駆け寄ろうとした。しかし奴隷商人は私の腕を掴み、ねじ伏せた。


「ケホッ……ゲホッ、ケホッ……!」

 なんだろう、なんか急に呼吸がしづらい。

 胸が苦しいし、身体も痒くなってきた。

 こんな症状は初めてだ。

「ん? なんだお前? 病気か?」

 奴隷商人は掴んでいた私の手を乱暴に放した。


「まぁいい。それよりも、今日からはお前の番だからな」

 奴隷商人の目は、獲物を見つけた獣のようにギラついていた。

「お前のことは一番気に入ってたんだよ。美味いものは最後に取っておくもんだろ?」

 私は体が震えた。

 でも、それは恐怖からではなく、覚悟からくる震えだった。


 夜になり今日も野宿をする。

 隣には巨大な森があり、南に進むとザリアナという町があるらしい。

 私は奴隷商人に呼ばれ、酒を注がされた。

 やがて奴隷商人は酒に酔い、下品な笑みを浮かべて私を求め始めた。

「さあ、楽しませてくれよ」

 奴隷商人は私の背後に回り、汚れた手で私の体をまさぐり始めた。

 興奮している息遣いが悍ましく、そして気持ちが悪い。

 それになんだろう。触れられると呼吸が苦しくなって身体も痒くなる。


 こんな事をされても希望を捨てずに夢を語っていたモニカとは対照的に私はこんな事するくらいなら死にたいと思ってしまう。

 だけど私はモニカの分まで生きないといけない。

 モニカはそれを望んでいたから。

 もっと早く行動を起こしていたらモニカも死なずに済んだ。

 最初からこうしていれば良かったんだ。


『──覚悟を決めて逃げる』

 私は自分に言い聞かせ

『──幸せになるために逃げよう』

 心の中で、モニカの声が聞こえたような気がした。


 私は奴隷商人が、服を全部脱いだ瞬間に隙を見て全力で逃げ出した。

 奴隷商人が『おい!』と怒鳴ったが、私は振り返らなかった。

 足には鉄の足枷がついていて、思うように走れない。

 それでも私は死に物狂いで走った。


 そして迷わず、近くの森へと駆け込んだ。

 森の中は異様な静けさに包まれていたが、ときより不気味な魔物の鳴き声が聞こえていた。

 背後では奴隷商人が森の手前で立ち止まり、私に向かって怒鳴っていた。


「森に入ると死ぬぞ! 早く戻って続きをしようぜぇ!」


 モニカ……私、もう怖がらないよ

 決断するのが遅すぎたんだ。

 モニカ、ごめんね。


 私は森の奥へと進んでいった。

 もし死んでも、モニカの元へ行ける。そう考えたら勇気がでた。

 モニカ、もう少しだけ待ってて

 少しだけ抗ってみるよ。

 モニカの分まで頑張ってみるから、だから見ていて欲しい。

 涙をこぼしながら、私は暗い森の中を進み続けた。

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