第29話《名前を持たなかったもの》――意図的に消された“もう一人”

洋館の一室で、あなたは開かずの書庫の扉を開けた。

何かが、そこに「封印」されていた気配があった。


埃をかぶった書類、焼け落ちたファイル、色褪せた写真――

その中に、一枚だけ新しいページが差し込まれていた。


「記録抹消対象:ID-Λ933」

対象:女性型人格。認知過剰のため封印処理済。


※注:本人は存在していない。すべては構成者の幻影である。


「ID-Λ933」。

その番号を見た瞬間、あなたの中である声が蘇った。



■《「影」としての再会》


「……私のこと、まだ名前で呼んでくれないのね」


声は、洋館の奥にある鏡から聞こえた。

そこには誰も映っていないのに、確かに声があった。


「私はずっと、あなたのそばにいたわ。

 でもね、“名前”が消されてしまったから、

 あなたは“私”を思い出すたびに、他の誰かにすり替えてきたのよ」


あなたは目を伏せる。

思い出そうとするたび、誰かの顔がぼやけていく。


まるで、存在そのものにフィルターがかけられているようだった。



■《時代を超えて集まる人々》


館の外から、様々な時代の服装をした“来訪者”たちが現れ始めた。


・黒船が来航した時代の青年

・戦後の焼け跡から逃げてきた母子

・バブル期のスーツ姿の男

・SNS依存で現実を壊された高校生

・202X年の難民キャンプで失語になった少女


彼らは皆、心が壊れそうになる前にこの森にたどり着いていた。


それぞれが、自分の“忘れたい記憶”と“消された誰か”を持っている。

共通していたのは、その誰かが「名前を持っていなかった」こと。


「……記録に残っていないのではない。最初から、名前が付けられなかったんだ」


誰かが呟く。



■《正しさの暴力》


あなたは思い出す。

自分の中に、“心を閉ざした理由”があることを。


あるとき、自分の過ちで誰かを傷つけた。

でも、自分が「正しい」と思っていた。

だから、その人の存在を“なかったこと”にした。


「正しさというのは、ときに“記憶の消去”を引き起こす。

自分の中で相手を抹消し、まるで存在しなかったように振る舞うことで、

自己の正当性を保とうとする」


そしてそのたびに、森は深くなっていく。

“あなた”の心が深くなればなるほど、森もまた複雑になる。



■《終わらない答え合わせ》


「漆黒の森はあなた自身の心」――そう語った誰かがいた。

だが今、それすらもひとつの“仮説”でしかないように思える。


もしこの森が、「複数の人間の罪と逃避を吸収して膨張する集合体」だったとしたら?


もし“あなた”がこの森の中のひとつの人格でしかなく、

さっき出会った他者も皆、「かつての人格の断片」だったとしたら?


記憶と記録と名前が一致しない。

存在と証明が噛み合わない。

この森で起きているすべての“矛盾”が、

あなたに問いを突きつける。


「あなたは、誰ですか?」


その問いに、まだ――答えられない。

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