毒の宮、誓いの檻

zataz

第1話 再誕の青薔薇

風が運ぶ血の匂い。


絞首台が建つ広場に、ヴィオレット・ド・ポイズンは立っていた。手首に食い込む縄。白いドレスには泥が跳ねている。一歩一歩、彼女は階段を上がっていった。


「反逆罪により、ヴィオレット・ド・ポイズンに死刑の宣告を執行する」


執行人の声は遠くから聞こえるように思えた。ヴィオレットは茫然と群衆を見回した。かつて優雅な舞踏会で彼女に媚びた貴族たちが、今は野次を飛ばしている。そして彼女の視線は、最前列に立つ一人の男に落ち着いた。


「アシュトン…」


彼は冷ややかな表情で彼女を見つめていた。一度は夫と呼んだ男。一度は愛したと思った男。すべては嘘だったのだ。


首に縄がかけられる。ヴィオレットは目を閉じた。


「今度は…すべてを変えてみせる」


最後の言葉を呟いた瞬間、足元の板が外れた。


***


「嬢様!嬢様!お目覚めになられましたか?」


激しい動悸と共にヴィオレットは目を覚ました。喉に感じた締め付けに反射的に手を伸ばす。だが、そこに縄はなかった。


「また悪い夢を?」


ベッドの傍らには、侍女のメリッサが心配そうな顔で立っていた。


「メリッサ…?」


ヴィオレットは混乱していた。目の前にいるのは、確かに十年前に暗殺された侍女だ。それが今、生きている。


「どうなさいましたか?顔色が悪いですよ」


「何も…ただの悪夢よ」


ヴィオレットは周囲を見回した。懐かしい自室。ポイズン家の邸宅にある、彼女の十六歳の頃の部屋だ。


「今日は何日?」


「5月15日です。お父様がお呼びです。朝食の準備ができました」


5月15日。ヴィオレットの脳裏に日付が走った。彼女が皇宮に初めて招かれた日。そして—物事が狂い始めた日。


「わかったわ。すぐに行くと伝えて」


メリッサが去ると、ヴィオレットはふらつく足で鏡の前に立った。そこに映っていたのは、二十六歳の女性ではなく、あどけなさの残る十六歳の少女だった。


「成功したのね…」


彼女は自分の手を見つめた。この手で何度も調合した毒薬。この手で触れたアシュトンの肌。そして—この手で掴みそこねた真実。


「今度は違う結末にしてみせる」


ヴィオレットは深呼吸をし、落ち着きを取り戻そうとした。前世では、彼女はこの日から宮廷に関わり、五年後にアシュトン・サイファーと政略結婚。そして更に五年後、反逆罪の濡れ衣を着せられ処刑された。


だが今、彼女には記憶がある。前世のすべての記憶が。


慎重に服を着替え、ヴィオレットは食堂へと向かった。


***


「おはよう、ヴィオレット」


エドガー・ド・ポイズンは、いつものように書物を傍らに置きながら朝食をとっていた。前世で処刑される三年前に病死した父親が、今、目の前に生きていた。


「お父様…」


思わず声が詰まる。


「どうした?具合でも悪いのか?」


「いいえ、ただ…」


彼女は深呼吸をした。感情を抑えなくては。冷静に。計画的に。


「少し変な夢を見ただけです」


「そうか」エドガーは頷いた。「さて、今日は皇宮からの招待がある。毒物検査官としての仕事だ」


「はい、知っています」


エドガーは娘の反応に少し訝しんだ様子を見せたが、すぐに話を続けた。


「皇帝陛下の健康状態に問題があるらしい。普段なら宮廷医師団だけで対応するところだが、毒の可能性も考慮して我々が呼ばれた」


「誰が要請したのですか?」ヴィオレットは知っていながら尋ねた。


「宰相のロドリック・サイファーだ」


その名前を聞いて、ヴィオレットの背筋に冷たいものが走った。敵の名前。彼女を破滅させた男の名前。そして—アシュトンの父親。


「わかりました。万全の準備をします」


「ヴィオレット」エドガーは急に真剣な表情になった。「宮廷は危険な場所だ。特に我々のような家系は…政治に巻き込まれないよう注意するように」


前世では、この警告を軽く受け流した。だが今は違う。


「はい、気をつけます」


朝食を終えると、ヴィオレットは庭に向かった。ポイズン家の青薔薇園。彼女の安らぎの場所であり、同時に家の象徴でもあった。美しくも危険な青い薔薇。適切に扱えば貴重な薬になるが、誤った使い方をすれば致死的な毒になる。


「綺麗ね」


青薔薇を手に取ると、アシュトンとの最初の出会いが脳裏に浮かんだ。あの日も彼女は青薔薇を髪に飾っていた。


「嬢様、準備はいかがですか?」


振り返ると、メリッサが立っていた。


「ええ、もうすぐよ」


「それにしても、今日の嬢様は少し違いますね」メリッサが首を傾げた。「何だか…大人びた感じがします」


ヴィオレットは微笑んだ。「そう見える?」


「はい。目の奥に…何か強いものを感じます」


「メリッサ」ヴィオレットは青薔薇を一輪摘み、それを侍女に手渡した。「これからは何があっても、私の側を離れないでほしい」


「嬢様?」


「約束して」


メリッサは困惑しながらも頷いた。「もちろんです。命に代えても」


「命は大切にして」ヴィオレットは静かに言った。「前回は守れなかったから」


「前回…ですか?」


「何でもないわ」


ヴィオレットはもう一輪の青薔薇を摘み、髪に飾った。「さあ、出発の準備をしましょう」


心の中で彼女は誓った。


今度は、運命を書き換える。

今度は、信頼を裏切らない。

今度は、真実を見極める。


そして今度こそ—ロドリック・サイファーを倒す。


彼女の復讐は、始まったばかりだった。

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