3-10. 20Hzのセイレーン
朧月夜の海上は静かだった。
黒いうねりを転がるように、白い光の球が散っている。それは十隻もの外国漁船が放つ、集魚灯の明かり。
発電機が低い唸りを上げ、ディーゼル排気と油の匂いが風に混じる。その中を、まき網が順に滑り落ちていく。
海域は、日本の
「港じゃ食えねえんだ。こっちなら漁がある」
誰にともなく漏れるぼやき。シャツで汗を拭う動きが重なる。
燃料高や取り締まりの不安は誰も口しない。
そうでもしなければ、甲板に立つ理由が崩れてしまうからだ。
日本国内での報道のことも知っている。だが追い詰められた彼らは「見つかる前に引き上げる」……その生存術に賭けるしかなかった。
操舵室の男が、レーダーと水平線を交互に見やった。国際VHFの16チャンネルは、今夜も沈黙したままだ。
夜空に、ぽうっと青白い光が膨らんだ。中心に人の形が一瞬だけ浮かんで、闇に溶けた。
「……見たか?」
「いや……何も」
その時だった。
無線に、砂を噛むような雑音が走る。甲板の上、船員同士が顔を見合わせた。
次の瞬間、全員の頭に声が落ちた。
「警告します」
若い、女の声だった。
「ここで漁をするのをやめて。ここはあなたたちの国の海じゃない。警告します——」
だが、方向はわからない。スピーカーはどこにもない。
現象の不可解さに、ざわめきが広がった。
「日本の巡視船か?」
「違う、レーダーも静かだ。近寄っちゃいねえ」
「なら、どこだ……?」
なぜならその声は、聴覚野に直接書き込まれた心幻出作用。彼らはそれを「鼓膜から聴いた音」と区別できない。
そして、異変はすぐに始まった。
最初に狙われたのは先頭の一隻。
見上げれば、そこに声の主が浮いていた。
その黒衣の少女がマストに触れた途端、鉄が軋むことすらなく、お辞儀をするように折れていく。いくつかのリベットが順々に弾け飛んだ。
続けて網の繊維が「引き裂かれる」という表現すら似合わないほど自然にほどけ、中の魚群がこぼれ落ちていく。
男たちの生活の礎を、少女が戯れのように壊し始めていた。
次は後続の一隻。
少女が、甲板に向けて垂直に落下した。髪が瀑布のように跳ね上がり、その速度を誇示する。
銃声のように乾いた着地音に、視線が束なった。
現実を超越した美が空間を穿つ。重力レンズに縁取られたペールブロンドと翅模様のスカートが、海風にそよいでいる。
何かに任せたような叫びが上がる。取り押さえに飛びかかった男は、指先に跳ね返され、甲板に転がった。
続く男が、バールを振り下ろす。少女はそれを二指で受け止めて、持ち手ごと冷ややかに横へ投げた。
二人が立ち上がった拍子に、船体がぐらりと傾いだ。
重心が別の軸へ移されたかのように、船は一人でに舳先を振った。操舵輪は空回りし、無線には罵声と雑音が重なる。
「舵が効かねえ! 勝手に回ってる!」
「おい、向きが……うわ、ぶつか——」
集魚灯が揺れ、影が伸びる。隣の漁船が船腹を擦り、火花が散った。
逃げようとした別の船のマストが折れ、その破片が三隻目のデッキに跳ねる。オイルに火が噛み、その熱が甲板を走った。
(裁く……)
黒い蝶がふわりと跳躍しながら、漁船の群れへ次々と異変を撒いていく。
(刻む……)
怒号と異音が重なり、押し合い、ぶつかり合い、集魚灯に代わって炎が海面を赤く照らし始めていた。
最後の甲板の縁、その
末梢神経模様の右手を眺め、五指を順に折り畳む。
(
彼女は理解した。
自分を“操縦”するだけが、その魔法則の使い途ではない。それは、触れた物体をも自在に動かす力。
自分以外の構造を選び、
無数の灯火と叫び声の中、凪いだ影で混乱を眺める。
その躯体を貫いたのは、“祈り”よりも鮮烈な、“支配”の陶酔。頭の中の交響曲が鳴り止まない。
——歌声で船を難破させる怪物がいたっけ。私はきっと、それだった。
沈黙のセイレーン。いや、私は確かに歌っている。だとしたら、人の可聴域の境界で歌うそれ。
黒き執行者の右手が、最後の干渉へと踏み出した。
「あなたも、転進して」
その指先が船首に触れたときだった。
視界に、別の軸が走った。船首の構造が入れ替わり、内部の金属面が脱ぎかけた服の裏地のように露出した。
それが『運動魔法則』の隠れた発動法——エリザベータのまだ理解しない“高次元軸”の物体回転だった。
思わず退き、その手を押さえる。
——これをもしも、
あの夜の河川敷、少しだけ力加減を間違えた時のぞっとした感覚が甦る。
(けど……私はそれを許してない)
反対の手で、再び撫で上げる。高次軸に捻れかけた船体に、逆向きの回転が加わる。舳先は、三次元物体としてあるべき位相へと収まった。
身動きを失った漁船の連なりを見渡すと、小さく頷く。
(これでいい)
最後に船上を再び滑空し、編集魔法則で次々と「火」という構造を断ち切っていった。
怪我人は、見当たらなかった。
「裁き」は果たされ、舞台が消灯するように静まり返った。短い時間で終わらせて、誰も傷つけていないはず。
——これだ。私の『夜暇』はこのためにある。
コーデクスが企図する『醒裁』では裁けない社会の悪を、私は私の魔法で断つ。
黒衣の少女の姿は、夢の終わりとともに、夜の波間に溶けていった。
***
枕の上でパチリと瞼が開く。
夢の中、水と火で奏でた壮麗な調べが、目覚めの脳裏に甘く残響した。
毎朝そうするように、依理乃は歯を磨くとテレビをつけた。
いつもの情報番組はCM中。
(不法投棄だけじゃない。裁くべき悪なんて、きっとまだまだ転がってる。
ニュースで見るのに誰も動かないあれやこれ。オーバーツーリズムの観光公害に、メガソーラーの乱開発……残り一回の夜暇で何を——)
CMが開けた。
目に飛び込んできたのは、ヘリの空撮。ところどころ灰色に焦げた漁船が浮いている。
『EEZ内で外国漁船が多重衝突』
まさに、昨夜の夢で起こした裁きの跡。思ったより大事だった。
少しやり過ぎたかもしれない。けれど怖がって、これに懲りて、「ルール違反」をやめてくれればそれで良かった。
ただ、アナウンスのトーンもテロップの質感も、その中学生が期待した規模を大きく違えていた。
『現地メディアは日本側の攻撃と主張/政府は関与を否定』
『外務省が相手国に抗議/緊張高まる』
『このあと内閣官房長官が会見』
チャンネルを切り替えるたび、物々しさを増す見出し。
まだ空っぽの胃袋が、勝手に裏返ろうとする。
あの恐ろしい高次軸の座標移動がフラッシュバックした。
そしてチャンネルを変える手が、思わず止まる。
『船員五人が行方不明/現在も捜索中』
背後のメレスに気づいたときには、手にしたリモコンの震えは止まらなくなっていた。
小さな教導者が、少女の罪を暴き出す。
「これが、君の軽率な夢の結果だ」
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