第29話

 朝靄が立ち込める中、ハンニバル公爵がやってきた。


 公爵は、自分自身の移動は馬車ではなく乗馬である。剣聖と名高い彼は、護衛はつけない。それは、自分自身のことは自分で守るというよりか、危急の際にはひとりの方が戦いやすいし逃げやすいという理由からだ。


 そんな公爵だけれど、今回はさすがに馬車を準備してくれた。


 王都にあるハンニバル公爵邸から、馭者と馬車を呼び寄せてくれたのだ。


「日和見亭」の前にその馬車がやって来て若い馭者を見たとき、内心で驚いた。


(若い使用人がいたのね)


 こちらの屋敷では、老夫婦がたまに手伝いに来るくらいである。使用人がいて、それが若いとなると意外でしかない。


(貴族も大変よね)


 いくら使用人は不要だといっても、貴族、しかも公爵ともなるとメンツやしきたりにこだわらなければならないのだ。爵位や家格にみあっただけの体面は保たねばならない。


 貴族は、大変なのだ。


 それはともかく、チャーリーの荷物を馬車に積みこんだ。あとは、本人が乗り込むだけだ。


 公爵自身は、いつものように愛馬に乘るようだ。ハンニバル公爵領に戻ってくることがあるし、体のおおきな彼が馬車に乗ると、圧迫感が半端ないらしいから。


「姉さん、行ってきます」

「チャーリー、行ってらっしゃい」


 別れの言葉は必要ない。彼もわたしもよくわかっている。だから、学校に行くときと同じような言葉のやりとりをした。


 いつもと違うのは、彼を強く抱きしめたことだ。そして彼もまた、わたしを抱きしめたことだ。


 驚くべきことに、チャーリーはすっかりおおきくなっていた。


 すっかり成長していた。


 物理的、つまり体格の成長だけではない。精神や心も成長している。


 わたしは、いままでこの事実に気づかぬふりをしていたのだ。というか、気がつかないようにしていたのだ。


 チャーリーがわたしから巣立たないよう、あるいは離れてしまわないよう、目を瞑り、耳をふさいでいたのだ。


 走り去る馬車と公爵の背を見つめながら、感情を必死に抑えねばならなかった。

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