クラウドナイン
みなかみもと
プロローグ
安定な道を望むのならば、意にそまぬ仕事も進んで受ければいい。
価値ある生き方を望むのならば、見えない先に踏み出せばいい。
だが、後になって考えてみたら、すべて運命だったようにも思える。
その運命が「誰の」ということに関しては、今でも明確には分かっていないが。
指定された時刻より三十分も早くに到着してしまい、タジャは仕方なく、建物から一定の距離を保ちつつ前で待つことにした。
どうやら少し緊張しているらしい。
腕時計を見るふりをしながら己の手首を掴むと、通常よりも若干脈が早い。それはそうだろう。これでも、かなり大きな勝負に出る直前なのだから。
二年勤めていた会社からクビを宣告されたのは、ほんのひと月前だった。
発端は他者にあったが、原因となる行動を起こしたのは自分だ。覚悟はできていた。
だが、己に対する周囲の態度がここまでになるとは想像していなかった。再就職をしようと各所に連絡するものの、名前を出した時点で断られた。
ミットレンというこの街では、南部出身者は極めて少なく、研究職に従事している者などそれこそほんの一握りだ。前職で起こした自分の所業は勿論悪評に値するわけだが、話を聞く前に、見ただけで撥ねら続けている。
ふとタジャは澄んだ空を見上げる。
五月の港町の風は乾いていて、快晴でも暑くない。故郷の風はいつも砂が混じって肌がざらつかせたが、ミットレンに来て初めてタジャは風が心地よいことを知ったのだ。
眼鏡越しに見上げる空の色も故郷のそれよりずっと青い。
この街で仕事をし続けたいと思っていた。
中継都市ではあるものの、環境も気候も、たとえ奇異の目を向けられたとて、人も概ね穏やかだ。商業施設に学習施設、娯楽施設も多く、それなのに夜間でも治安は悪くない。大学を卒業して初めて勤務するには十分な場所であり、ここで資金を蓄え、経験と力をつけてから別の大都市へ挑むつもり、だった。
だが、現状はどうだ。
会社は解雇。無論、解雇理由が理由なだけに退職金も出ず、雇用保険も当分の間は支払われない。貯蓄はいくらかあるが、今後のことを考えると呑気にしている場合ではなかった。
今回の面接も駄目ならば違う都市へ行こう。
大都市となれば物価も高くなるし、騒がしくもなるだろう。己の容姿に対する偏見も強くなるかもしれないが、仕事がないよりはマシだ。別の職種を探そうかとも考えたが、苦労して大学院を卒業したのに、違うことをしなければならないのは屈辱だった。
そこまで思考をまとめてから
「我ながら、八方ふさがりだな」
自虐的な言葉が無意識にこぼれ、皮肉な笑みが自然と口元に浮かんだ。
抗えない己の力の無さと、その波にのまれてすっかり意気消沈している己自身に気が付いて、もう笑うしかない。
が、その時。
「……あの」
背後で控えめな声がして、タジャの体は思わず跳ねた。
気配が無かったので油断したが、慌てて振り返るとそこには誰もいない。
いや、いた。
視線を下げないと見えなかったが、タジャよりもずっと小さな女性が困ったようにこちらを見上げている。
違う、女性というよりも「少女」だ。
肩当たりで切られた髪は黒いが、タジャのそれと違って真っすぐ艶やかで、こちらを見上げる瞳も同じく黒、なのに光を受けて薄茶色に輝いて見えた。右肩にかけてある買い物袋からは野菜や果実が顔をのぞかせ、左腕にかけられた買い物袋からはトイレットペーパーが見え隠れしている。長身のタジャの胸当たりまでしかない小柄な体つきで、面接予定の建物の扉に手をかけている姿勢で彼女は止まっていた。入ろうとしている建物の前に、こんな男が立っていたら怖いだろうに、果敢にも少女は再度問いかけてくる。
「うちに、何か御用でしょうか?」
鈴のなるような声というのは、こんな声を言うのかもしれない。
控えめな物言いだが、なぜか耳に響くその声に一瞬呆けてしまったものの、すぐにタジャは冷静さを取り戻した。
姿勢を正し、会釈する。
「恐れ入ります。私は、本日13時からライアン商事に面接で参りました、タジャニ・ルーファンと申します」
「13時……」
呟いて、少女は袋のかかった自分の左腕を持ち上げた。腕にはめた時計を見ようとしたらしいが、そこには何もない。腕時計をつけ忘れたのだろう。少しばつが悪そうな顔を少女がしたので、タジャは落ち着いて続けた。
「ずいぶん早くに到着してしまいましたので、こちらで待たせていただいていました。申し訳ありません」
言い訳しながら、タジャは内心己に舌打ちする。
普段ならば直前まで近くを歩いて時間を潰していたはずなのに。
この少女が面接する会社の関係者かどうかは分からないが、指定された建物に関係することは「うち」という単語から間違いないだろう。というか、少女の持ち物があまりにも日用品過ぎていて、タジャは不安になった。
住所は何度も確認したので、この建物が面接場所であることは間違いない。三階建ての石造りで陽光を取り入れるためか、窓が多い。さぞ中は明るかろうと考えていたが、これが住居のための窓だと言われたらそう見えてくる。
では、この家屋のどこか一室が会社だということなのか。だとすれば、随分な外れを引いてしまった。内部がどのような間取りか分からないが、少なくとも居宅にオフィスを構えているような会社はろくな会社ではない。
だが、長身の頭を下げるタジャに気を許したのか、少女の方は「面接の……ツナさんが言っていた……」と何か思い出したようだった。そしておもむろに扉を引き開けると、まだ頭を下げているタジャに明るい声を出す。
「どうぞ、中でお待ちください」
「いや、しかし」
顔を上げたが、タジャは返答に窮する。この少女が面接先とどういう関係があるのかも分からない上に、約束よりも早い時間に到着したことはマナー違反だ。何より、会社の形態について今更ながら不安になってきていた。言われるまま中に入って本当にいいのだろうか。
そうだ、本当に、いいのだろうか?
もしこの会社に就職が決まったとして、自分が望んだような仕事ができるのだろうか?
それならば別の都市で新たな職場を探したほうが良策なのでは?
「大丈夫ですよ。ツナさんなら一時間前にすっかり準備は出来ていましたから。早くに来てもらった方が助かるって言ってましたもの」
こちらの不安を都合よく誤解してくれたのか、少女がにっこり笑いかけた。
決して派手な顔つきではないというのに、なぜか印象的な笑顔だ。
それでも躊躇するタジャに対して、少女は扉を引き開けたままタジャが入りやすいよう体を横にずらし、
「あっ」
肩からずれ落ちた袋から勢いよく林檎が零れ落ちた。
瞬間、タジャは前に踏み出して、空中でそれをキャッチする。タジャの手にすっぽり収まった果実を見て、少女は慌てて「すみません」と謝り手を差し出す。
瞬間、その白い指先がタジャの手に触れた。
思いのほか冷たい感触に驚いて、今度はタジャが林檎を取り落としかける。
「あっあっ」
それを受取ろうと少女は更に前のめりになり、荷物の重さもあってか大きくバランスを崩した。
このままならば、間違いなくこける。
恐らく肩から。
頭で考えるよりも先に、倒れかけた少女の肩を空いた手で支えていた。
トンッ、と赤い果実が地面に落ちる音で我に返る。
袖越しに伝わる体温と、生々しいほどの柔らかな感触。
タジャの腕の中で少女が静止したのは時間で言えば数秒だった。
「すみませんっ」
先に声を出して動いたのは、少女の方だった。
慌てて荷物を肩にかけなおして、一歩後ろに下がると、残像が見えるほどの勢いで頭を下げる。
「ごめんなさい、うっかりしてまして。お怪我してませんか?」
怪我をしているか聞くならばこちらの方な気がしたが、その勢いが良すぎたのでタジャも思わず「いえ、大丈夫です」と曖昧な返事をしてしまった。ふと足元を見ると、先ほどの林檎が転がっている。ふっと拾い上げたら、意外に固かったようで傷はついていなかった。
「これ……」
「ああ、ありがとうございます!」
差し出すと、今度は落とさないように少女は両手を差し出してきた。まるで宝物を受け取るように広げられた小さな掌に、少し戸惑いながらもタジャは林檎をそっと手渡す。
そして同時に沸き上がったのは、不安感だ。
「その……」
「はい?」
つい口から言葉が漏れて自分でも驚いたが、こちらが誤魔化すより先に少女に返事をされてしまった。曖昧な表現で場を逃れようと思ったのに、なぜか零れ出たのは心の中にあるままの言葉だ。
「その林檎、食べるんですか?」
「へ?」
言われた意味が分からないのか、鈴のような音を保ちながら間抜けた声で少女が言った。
しくじった、と思った時にはもう遅い。
林檎なのだから食べるに決まっているのに、何を言っているんだ俺は。明らかに不審者じゃないか。そもそもなんで林檎を受け止めようと思ったんだ? そんなことをしたら。
やだ、きたない。
頭の隅、遠くの方で、だけどはっきりと声が聞こえた。
瞬間、タジャの体が凍り付いたように冷える。これからの面接に対する緊張も、触れた戸惑いも、わきあがった不安感もすべてが瞬時に凍り付く。
すべてが重く、冷たい。風も、陽光も、何もかもが。
「ちょっと固いのでそのままだと美味しくないかもしれないですよね」
鈴が鳴ったように聞こえた。
ハッと息を吸い込んで前を見ると、相変わらず林檎を大切そうに持ちながら、少女が首を捻っている。
「八百屋さんがおまけしてくれたんです。生だと美味しくないから調理してと言われたんですけど、どう調理するか考え中で……」
敬語であるからこちらに話しかけているのだろうが、どちらかというと己の思考を整理しようとしている風が強い。癖なのだろうか、少し上の方を見て唇をひん曲げるその顔は、愛嬌があった。
だからだろうか。余計な口出しをしたくなる。
「……ソースにしたらいいんじゃないですか」
「へ?」
再び間抜けな声を出す少女の顔を見ないように、眼鏡の位置を直しながらタジャは続けた。
「……すりおろして、白ワインとバターで煮詰めたら、肉によく合いますよ」
何を言っているんだ俺は。
うっかり不用意な発言をして、ますますタジャは顔を上げることが出来なくなる。だが、正面からは感嘆の声が響く。
「それはおいしそう」
「……は?」
今度はこちらが間抜けな声を出してしまう。少女は顔を輝かせ
「今日はちょうどお肉買ってきたんです。でも普通のソテーだったら飽きたって言われそうだったので、試してみます、林檎ソース」
そういって、喜ぶ勢いが凄まじい。
大きな成果をあげたわけでもないのに、なぜそこまで喜べるのか謎だったが、少女の喜び具合を目の当たりにして、逆にタジャはいつもの冷静さを取り戻した。
「それでは私は、一度失礼します。お約束の時間に再度伺います」
そう言って軽く会釈して踵を返す。
やめよう。
ここの面接を受けるのは辞めにして、早々に街を出よう。
最後に出会ったのがこんな元気のよい少女でよかった。元気が良すぎて冷静になれたものの、ここではとても働けそうに思えない。働けたとしても距離感が近すぎる。
だが、進もうとしたところで、何かが腕に引っかかって進めない。
驚いて振り返ると、先ほどの少女が両手でタジャの腕を掴んでいた。ギョッとするこちらを見上げる彼女の目は、先ほどの喜びとは一転して真剣そのものだ。
肩からかけている袋もそのままに、少女は低い声を出した。
「逃げる気ですね?」
「は?」
「お店の前まで来たのに面接せずに帰っていった人がこれまで何人もいるんです。タジャさんも逃げる気ですね?」
まさに図星なのもそうだが、名前を、それも愛称の方で呼ばれたことに驚いてタジャは言葉も出ない。だが、それを少女は肯定だと取ったらしく、腕を掴んだまま扉の向こうへ大声を出した。
「ツナさん、ツナさーんっ! 早く来てください! 面接者が逃げますよー!」
「ンなっ……!?」
「捕まえてる間に早くっ! それから!」
扉の向こうの誰かを呼んでいると思ったのに、唐突にこちらに向き直られてタジャはギクッとする。ギクッとだって? そんな感情、何年も抱いたことが無かったが?
だがこちらの新鮮な焦りに気づいていないのか、少女はなおも低い声をだした。
「あなたも、逃げるようなマネはせず、断るならばちゃんと面接する相手に言ってください」
低いのに、鈴の音の響きを残した彼女は、最後にきっぱりと言った。
「何もしないでそのまま逃げるなんて、卑怯です」
言われてぐうの音も出ない。
黙るタジャと、その腕をつかんだまま離さない少女の元に
「なにごとだぁ?」
と穏やかな声が近づいてきたのは、それからすぐのことだった。
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