《中途半端だった俺が、異世界で知と勇を磨いて将軍になった話》
@masa6410
第1話 背水の陣
潮の匂いが鼻をつき、荒れた波の音が耳を打つ。
――ここは、どこだ?
うっすらとまぶたを開けると、灰色がかった空が広がっていた。
鉛のように重たい身体を引きずりながら、青年は顔を上げる。全身が濡れ、服には砂がこびりついていた。
波打ち際に倒れていたのは、直人(なおと)、26歳。
社会のどこにも居場所を見いだせず、ただ時間を浪費するだけの日々を送っていた、元・ニートの男だった。
「……あれ、ここ……博物館じゃない……?」
かすれた声は、波の音にかき消されていった。
――たしか、さっきまでは歴史資料展にいたはずだ。
たまたま足を運んだその展示で、「孫子」の写本をガラス越しに眺めていた。
古めかしい巻物の文字を目で追っていた、そのときだった。ふいに意識が遠のき、頭の中に戦場の情景が流れ込んできた。
刃がぶつかり合う音、怒号、甲冑が揺れる響き。風にたなびく旗、地を蹴る馬――まるで夢の中のように、鮮やかに。
そして今、目の前にあるのは、夢では済まされない現実だった。
直人はようやくのろのろと上体を起こし、周囲を見回す。
海は鉛色の空と同じようにどんよりとして、灰色の波が不規則に打ち寄せていた。
背後には小高い丘と鬱蒼とした森。見慣れない地形、聞いたこともない植生。道路も家も、電柱すらない。
「……どこだよ、ここ……」
海岸の砂は粗く、ごつごつして足の裏が痛い。
靴は片方脱げていた。
ポケットにスマートフォンがあることを思い出し、慌てて探る。
しかし、なかった。
波にさらわれたのか。もはや連絡手段もない。
無意識に舌打ちが出る。
だが、その瞬間、自分がどれほど心細い状況にいるのか、ようやく実感として迫ってきた。
これは夢ではない。
誰もいない海岸に、ひとりぼっち。
電波も届かない、見知らぬ土地。
――もしかして、本当に、どこか別の世界に来てしまったのか。
頭を抱えてしゃがみ込もうとしたときだった。
森の方から、「ギィィィ……ギチ、ギチ」と、古びた木がきしむ音が聞こえた。
風か? いや、違う。何か重いものが木々を押しのけながら進んでくる、規則的な足音。
直人の背筋に、冷たいものが走る。
(やばい……なんかいる……!)
一歩、二歩と後ずさる。
だが砂に足を取られて転びそうになる。なんとか体勢を立て直した、そのとき――森の影から何かが姿を現した。
それは、人影だった。
ボロ布のような衣をまとった、小柄な人間。
こちらに気づくと、その人物は驚いたように足を止めた。
「……人、か?」
声はかすれていたが、はっきりと日本語だった。
言葉が通じる――その事実に、直人は茫然と立ち尽くした。
人影はゆっくりと近づいてくる。
十代の少年のように見える。肩には大きな荷を背負い、目つきは鋭い。泥にまみれた顔は、幼さより警戒心に満ちていた。
「……おまえ、背の者じゃないな。よそ者か?」
「え……?」
「こっちに来い。浜辺じゃ危ねぇ。あんた、命があるだけでも運がいい」
何がなんだか分からないまま、直人はその少年に手を引かれた。
泥だらけのズボンを引きずりながら、少年の背を追って森の中へ足を踏み入れる。
湿った空気。草の匂い。どこかで鳥が不気味に鳴いている。
――なんで、こんなことになってるんだ。
頭の片隅で、ずっと何かがざわついていた。
海に打ち上げられた瞬間から、現実感なんてなかった。けれど、足元の冷たさや空腹は嘘じゃない。
――俺、逃げてきただけだったのにな。
父親は真面目な人だった。仕事一筋で、家にはほとんどいなかった。
帰ってきても、黙ってテレビを見て、寝るだけ。
「直人、お父さん忙しいからな」
何度もそう言われたけど、それが言い訳にしか聞こえなかったのは、母のせいだった。
母は情緒不安定で、いつ怒り出すか分からなかった。
泣いたり、叫んだり、笑ったり――テレビドラマの登場人物みたいに、感情が毎日変わった。
小学生の頃、夕飯を食べながら泣き出した母の顔が、いまだに忘れられない。
――家にいても、誰にも助けを求められなかった。
学校もダメだった。誰かに話しかけようとしても、タイミングが分からなかった。
「空気読めないやつ」って目で見られてる気がして、余計にしゃべれなくなった。
やっとの思いで就職しても、ノルマと人間関係の板挟み。
仕事を転々とするうちに、何もかもが嫌になって、最後は部屋から出なくなった。
――そんな俺が、なんで今――こんな場所にいるんだよ。
木々の間から差し込む光は温もりではなく、ただ異質だった。
ふと、少年が振り返る。
「急げ。こっち、獣道になってる」
言われるがままに足を進めながら、直人は心の奥底で思った。
――逃げて、逃げて、逃げて――最後に、背を預ける場所もない。
ここは現実なのか、それとも罰なのか。
ただ一つ確かなのは、もう後ろには戻れないということだった。
――背水の陣。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます