傾いた世界
鶉の子
第1話 傾き始めた日
春の風が教室の窓から吹き込んで、ノートの端がめくれた。
僕の首は、今日も少しだけ右に傾いていた。
「おーい、また首、曲がってるぞ!」
いつものように、隣の席の藤田が笑いながら指摘してくる。僕は曖昧に笑ってごまかした。
「そっか。癖、なのかな。」
本当は、自分でも気づいていた。
けれど、それがどうしようもない“異変”だとは、まだ思いたくなかった。
*
最初は軽い違和感だった。
朝起きると、首がちょっと右に傾いていて、まっすぐに戻そうとすると、どこか筋が引っ張られるような感覚がある。
寝違えたのかなと思っていた。
でも、それが三日続き、一週間、そして一ヶ月経っても変わらなかった時、
僕はようやく「おかしい」と思い始めた。
通学中も、ふとした瞬間に視界が右にズレる。
自転車に乗るのが怖くなった。電柱にぶつかりそうになる。
それでも、誰にも相談できなかった。
怖かったから。
病院に行けば「何かある」と診断されてしまうかもしれない。
名前のわからない“それ”に、まだ名前をつけたくなかった。
でも、それはだんだん僕の日常を、少しずつ奪っていった。
*
「最近、前より首、傾いてない?」
母が夕食の席で言った。
箸を止めた僕に、父もじっと目を向けてくる。
「病院、行こうか」
その言葉に、僕の中の何かがぷつんと切れた。
「……いいよ、別に。ただの癖だって」
「でもね、気になってるんでしょ? 朝も首をさすってたし」
黙っていた。
たぶん、母の言う通りだった。僕はずっと、見て見ぬふりをしていた。
――“傾き”はもう、戻らないかもしれない。
*
初めて行った整形外科で、首のレントゲンを撮った。
医師は少し眉をひそめていたが、「異常は見られませんね」と言った。
「もしかしたら、神経性のものかもしれません。一度、神経内科を受診されては?」
それが、僕の人生で初めて「神経内科」という言葉を聞いた瞬間だった。
その夜、スマホで検索した。
「首が傾く 原因」
いくつも症状が出てきた。
その中に、見慣れない文字があった。
痙性斜頸(けいせいしゃけい)
――それが、僕の「世界が傾き始めた」日だった。
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