傾いた世界

鶉の子

第1話 傾き始めた日

春の風が教室の窓から吹き込んで、ノートの端がめくれた。

僕の首は、今日も少しだけ右に傾いていた。


「おーい、また首、曲がってるぞ!」


いつものように、隣の席の藤田が笑いながら指摘してくる。僕は曖昧に笑ってごまかした。

「そっか。癖、なのかな。」


本当は、自分でも気づいていた。

けれど、それがどうしようもない“異変”だとは、まだ思いたくなかった。



最初は軽い違和感だった。

朝起きると、首がちょっと右に傾いていて、まっすぐに戻そうとすると、どこか筋が引っ張られるような感覚がある。

寝違えたのかなと思っていた。


でも、それが三日続き、一週間、そして一ヶ月経っても変わらなかった時、

僕はようやく「おかしい」と思い始めた。


通学中も、ふとした瞬間に視界が右にズレる。

自転車に乗るのが怖くなった。電柱にぶつかりそうになる。


それでも、誰にも相談できなかった。


怖かったから。


病院に行けば「何かある」と診断されてしまうかもしれない。

名前のわからない“それ”に、まだ名前をつけたくなかった。


でも、それはだんだん僕の日常を、少しずつ奪っていった。



「最近、前より首、傾いてない?」


母が夕食の席で言った。

箸を止めた僕に、父もじっと目を向けてくる。


「病院、行こうか」


その言葉に、僕の中の何かがぷつんと切れた。


「……いいよ、別に。ただの癖だって」


「でもね、気になってるんでしょ? 朝も首をさすってたし」


黙っていた。

たぶん、母の言う通りだった。僕はずっと、見て見ぬふりをしていた。


――“傾き”はもう、戻らないかもしれない。



初めて行った整形外科で、首のレントゲンを撮った。

医師は少し眉をひそめていたが、「異常は見られませんね」と言った。


「もしかしたら、神経性のものかもしれません。一度、神経内科を受診されては?」


それが、僕の人生で初めて「神経内科」という言葉を聞いた瞬間だった。


その夜、スマホで検索した。


「首が傾く 原因」


いくつも症状が出てきた。

その中に、見慣れない文字があった。


痙性斜頸(けいせいしゃけい)


――それが、僕の「世界が傾き始めた」日だった。

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