5-B
息を吐くように、呻くように声を掛けた。日菜子の目を、無理矢理に真直ぐ見つめる。
「……ありがとう、日菜子。また明日な」
「うん、またね」
言いたいことは、他にもあったのだけれど。言わなかった。まだ言えないと思った。去っていく日菜子の背を見送って、橙牙は扉を閉める。
家の中に光は差さない。もうすっかり夜が来てしまった。その中でも一際暗いところから、ぞわり、と這い出してくるものがある。
「ああもう! すっごくすっごく良い機会だったのに、何で逃がしちゃうかなぁ? そんなんじゃいつまでたっても、狩りが上手くなれないよ?」
「……言っただろ、マキ。俺はあいつを喰いたくない。狩りたくないんだ」
振り返りながら言う。マキは手ぶらだった。日が沈んだら狩場につれていくと言っていたから、そうだろうと思っていた。
だから、今しかない。
「お前は、俺のことを好きだって言ってくれたな」
「ああ、そうだよ。ボクの傍にいてくれ」
「……ごめん。それはできない」
意味が分からない、とでも言うように、マキはかくりと首を傾げた。人間だったら、首が折れていやしないかと不安になりそうな角度だ。マキに人のような骨などないから、橙牙は気にしなかったけれど。
「俺は化物じゃなくて、人間だから。俺を人間だと思ってるやつの傍に行く。――お前の想いには、応えない」
「……どうして?」
その声に宿るのは、悲しみ。
「ボクはきみの傍にいたいのに、きみはボクの傍にいてくれないの? ボクはきみが気に入りなのに、きみはボクを気に入ってはくれないの?」
どうしたって叶えたい願いだったから。叶わないことが心底不思議で、悲しくて仕方がない。彼女の声は、表情は、子どもみたいに素直に感情を表していた。これまで通り、複雑な含意も葛藤も何もなく、彼女は橙牙を見つめていた。目玉のように造ったパーツを、真直ぐ彼に向けていた。
「俺、好きなやつがいるんだ」
「……それって、あの女のこと?」
橙牙は頷いた。
「自分の正体を知らなかった俺の、雑な言葉を真に受けて。ずっと好きでいてくれたんだ。俺は、その想いにこそ応えたい。お前じゃなくて、あいつの想いに」
幼い頃の『告白』は、食欲からだったとしても。今の橙牙はそうじゃない。あの少女が、誰よりも傷つけたくない、何よりも食べたくないものだと思っている。願っている。誓っている。
「だったら、あれを壊してくればいい? そうしたら、トウガはボクを選ぶかな」
「そんなことをされたら、俺は永遠にお前を好きにはならないな」
橙牙の苦い笑みに、マキは途方に暮れるばかりだ。
「何で? もうきみはあれを食べないんだろう? じゃあボクが殺したって食べたって、いいじゃないか」
「横取りはしないって、言ったのに?」
「でも、なら、どうしたらきみは傍にいてくれるんだい? あんなに食べ物を持ってきたのに、狩りにも連れてくって言ったのに、どうしてきみは、」
言葉を継げなくなったマキを、橙牙は無言で見やる。彼にはもう、彼女に渡せる言葉なんてなかったのだ。
マキの傍を選ばないと、彼は決めた。だからこそ、過剰に傷つけるべきじゃあないと思った。曲がりなりにも、自分に好意を向けてくれた相手だ。その想いを乱雑に打ち捨てるような、不誠実な真似はしたくなかった。甘ったれた考えだということは、分かっていたけれど。
「……きみは、ボクが、嫌いなんだね」
「……ああ」
それ以上は言わない。ただ小さく頷いた橙牙を見て、マキは少しだけ沈黙して、それから笑って頷き返した。
「分かったよ。でも、ボクはきみが好きなんだ。だから……」
「……っ!」
影のような手が、橙牙の首に向かって伸ばされる。橙牙がそれを避けると、マキは腕をさらに増やして、彼に見せつけた。
「傍にいてくれないなら、せめてお腹に入ってくれよ」
その声は笑っていたけれど。その姿はもう、人を真似ることをやめていた。
腕と足は数えきれないほどに増え、関節などどこにも見当たらない。爛々と光る目のような何かは、躰のあちこちに散らばっていた。
バックステップ。慌てて扉を開けた。逃げ出す橙牙を、マキは追ってくる。……けれどすぐに、彼は違和感に気付いた。
(本気じゃ、ないんだな)
彼女はもっと身軽で、俊敏だったはずだ。それなのに今は、のろのろと身を引き摺っている。その様子を訝って足を止めれば、彼女も足を止めてしまう。近付いてみたら、じわ、と距離を取ろうとした。
月が出ている。街灯の少ない通りでも、そのおかげで充分に明るかった。橙牙の影に触れないように、マキは動きを止めている。
「何で逃げないの」
「追いかけてこないからだろ」
「……だって、だって食べたくないんだよ、きみのこと」
声は震えて、涙が混ざる。目玉の光も、いつの間にか霞んでいるようだった。
「どうしても、美味しそうに思えないんだよ。追いかけても楽しくないし、きっと捕まえても、壊しても嬉しくない。ボクは、きみに傍にいてほしいだけなんだよ」
宝物を手放したくないと、嘆く子どものようだ。それは、確かに人の恋とは違ったけれど、それでも切実で、純粋な想いだった。
「ごめんな、マキ」
だから、それを受け止めることだけはしなければならなかった。
「俺のこと、好きになってくれてありがとう」
「だったら、好きになってくれたら良かったのに……!」
マキは人間ではない。好いてくれた相手を好きにならないなんて、人間の機微は分からない。
でも、自分は。ずっと、ずっと彼が好きだったから。その気持ちは、本当だったから。
「まだ、一緒にいさせてくれよ。なあ、まだ……」
好きになってはもらえないのだとしても。ずっとそばにはいてくれないのだとしても。長く一緒にいればいるだけ、結局橙牙は離れていくのだと、思い知ることになるのだけれど。
でも、と請えば。最後には橙牙も、一つ溜め息を吐いてから頷いた。
「……分かったよ」
マキが微笑んだ。いつの間にかその姿は、人間の少女を模した、橙牙が見慣れたものに戻っている。
二人は橙牙の家まで戻って、屋根に上った。月明かりが眩しいくらいだった。血肉の匂いは微かにも香らない。穏やかな時間だった。
言葉はほとんど交わさなかった。二人は、ただそこにいただけだった。空が白んでくるまで沈黙を分かち合うのは、どちらにとっても苦しくないことだった。これで終わりだという、少しの苦みがあるだけだった。
寝不足の目に、太陽の光が眩しい。今日も暑くなりそうだ。橙牙は自分の影と、マキとを見比べた。影から出てくる化物なのに、自分の影は持っていないのか。何となく、それを確認してしまった。
「……それじゃあ、さよなら」
「ああ。さよなら」
マキの声は、もう泣いてはいなかった。ふざけるように軽い声で別れを告げていた。想いを覆い隠すことを、彼女は学び始めていた。
屋根を降りて去っていく彼女の背を、橙牙は見送る。日の光に照らされて、消えていく躰が見えなくなるその瞬間まで、ずっと。
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