第4話 転落
天国から地獄へ落ちるのに、そう時間はかからなかった。その大勝負から数日後、マーケットは突然牙をむいた。米国株式市場がインフレ懸念の高まりから急落し、健太が大量のポジションを抱えていたあのIT株も例外ではなかった。夜、更けまで画面に張り付いていた健太の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。好調だった株価がわずか数十分の間にみるみる下落し始めたのだ。
最初は小幅な調整かと思われた。しかし下げは止まらない。1,000ドルを超えていた株価が900ドル、800ドルと怒涛の勢いで崩れていく。健太は凍り付いたように画面を見つめ、動けなかった。「こんなはずじゃない…」頭の中で繰り返すが、現実の数字は無情だった。評価額はみるみる減り、含み益は瞬く間に消え去って含み損へと転じた。
パニックに襲われた健太は、何とかしなければと焦った。だが明確なルールを決めていなかった彼は、どう対処すべきか判断できない。損切りする勇気もなく、「もう少し待てば戻るはずだ」と根拠のない希望に縋った。むしろ下がった今こそ買い増しの好機ではないかという誘惑すら頭をよぎり、健太は残っていた余力資金を使ってナンピン買いを試みた。しかし、それも焼け石に水だった。相場の下落は勢いを増し、深夜の静まり返った部屋で、彼のパソコンの中だけが嵐のような惨状を呈していた。
ついに耐え切れず、健太は震える指で売り注文を出した。だが時すでに遅く、約定した価格は彼が想定していた水準より遥かに低かった。マーケットから強制的に退場を命じられたも同然だった。取引画面の残高表示を見ると、そこにはわずか50万円ほどが残るのみ。ピーク時には200万円近くまで膨らんでいた口座が、一晩で四分の一以下になっていたのだ。
健太の頭は真っ白になった。心臓が早鐘のように脈打ち、手足は冷え切って感覚がない。現実感がなく、まるで悪い夢を見ているようだった。「嘘だ…嘘だろ…」声にならない声が唇から漏れる。目の奥が熱くなり、気付けば頬を涙が伝っていた。これまで感じたことのない敗北感が全身を貫き、健太は静かに嗚咽した。
朦朧とした意識の中で、健太は自分のしてしまった過ちの大きさに打ちのめされていた。慢心し、リスクを無視し、取り返しのつかないミスを犯したのだ。頭では理解していても、感情が追いつかない。震える手でノートを開こうとしたが、何も書けなかった。日誌に向き合うことすら怖かった。「マーケットの魔術師」のページをめくることもできない。憧れたエド・スィコータの足元にも及ばない自分——その惨めさを直視するのが辛く、健太はただ呆然と夜明けまで天井を見つめていた。
翌朝、健太は出社する気力を失っていた。会社に病欠の連絡を入れると、一日中ベッドから起き上がれなかった。スマートフォンからは証券会社からの追証(追加保証金)の通知メールが届いていたが、開封する勇気もない。彩からの着信履歴もあったが、応じることができなかった。誰とも話したくなかった。全てから逃げ出したかった。暗い寝室に閉じこもり、健太は天井を見つめながら、人生で初めて味わう深い挫折の苦味に耐えていた。
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