或る伯爵夫人の話

雨之宵闇

第1話

「旦那様は、今日もお戻りにならないのかしら」

「はい、奥様。先ほど使いが参りまして、本日もお泊まりになるとのことです」

「そう」


 サフィリアの問い掛けに、執事は夫が今宵も帰宅しないことを告げた。

 多忙な夫が勤めから戻らないのはよくあることで、今回はこれで三日連続となる。


 サフィリアは小さく溜め息をついた。小さ過ぎて誰にも分からなかったと思う。どこかでほっとしている。夫の不在を喜ぶなんて、なんと不出来な妻だろう。


 それも仕方のないことだとサフィリアは思う。夫を忌み嫌っている訳ではない。あの夫のどこにも嫌える要素は見当たらない。

寧ろ疎まれているのは自分のほうだ。


 誰もいない一人寝の寝台に横になりながら、サフィリアは、ほうと深く息を吐いた。一人切りになってようやく誰の目も気にせず溜め息がつける。

 誰もいない宵闇の世界だけが、サフィリアにありのままの姿でいることを許してくれる。


 夫は出来た人だ。だから決して口には出さないが、心の中ではサフィリアよりも余程深い溜め息を吐いている筈だ。

 夫はサフィリアに愛情を抱いている訳ではない。彼は、仕方なくサフィリアを妻に娶ったのだから。


 サフィリア・バイロン・コットナーはコットナー伯爵家の当主夫人である。夫のルクスに嫁いで二年になる。


 ルクスは、今年二十二になるサフィリアよりも四つ年上で、とある夜会で二人は出会った。

 あれが出会いというのなら、夫は随分可哀想だと思う。


 本来なら、ルクスはサフィリアのような妻を得ずとも良かった筈で、事故のような不幸な出会いの末に、「責任を取る」という形でサフィリアを娶った。


 場合が場合であったから、婚約期間なんてものはすっ飛ばして、社交シーズンが終わった時期であるのをよいことに、身内だけのこじんまりとした式を挙げた。

 伯爵家同士の婚姻で、どちらもそこそこ財のある家柄なのに、まるでこっそり隠れるような挙式の有り様が全てを物語っていると思う。


 ルクスは年齢よりも落ち着いて見える。 

 一重瞼の眼差しが少しばかり人を寄せ付けない雰囲気を漂わせているが、淡い金の髪と鮮やかな翠の瞳が、そんな彼を洗練された姿に見せている。実際、彼は立派な大人の男性だ。


 そんな彼の妻が自分だなんて。

 婚姻から二年経っても、いまだにサフィリアは逃げ出したくなる。何処へ逃げるって、彼の元以外ならどこでも駆け出して逃げてしまいたい。

 それほど夫が嫌なのかと言われそうだが、そうではない。ただただ申し訳ない。あの日の責任、その一点で夫の人生を縛っている。


 美丈夫の貴族当主を夫に持つ。そんな幸運を願った訳ではないサフィリアは、華やかな貴族の社交場でひっそり埋もれるような令嬢だった。

 ブルネットの髪は侍女のお陰で艶々だ。なんだったらサフィリアの唯一の長所だろう。後は消炭色の暗い瞳と白いのか青いのか分からない微妙な肌色の、どことなく地味で陰のある、そんな令嬢がサフィリアだった。


 嫡女の姉も同じ色の髪と瞳を持っているのに、堂々とした姉は美しかった。学園に入学する前から婿入りを願う令息たちから数多の釣書が届いて、姉はその釣書を大きなトランプだと言ってサフィリアとカードゲームを楽しんだ。あの時のジョーカーは一体誰だったのだろう。


 利発で聡明な姉にほんの少しでも似ていたら、サフィリアはもっと堂々と夫とも向き合えたのだろうか。

 いやいや、それは無理だろう。だって中身も地味だもの。


 寝台の中でいやいやと首を振りながら、今宵も城に泊まって戻らない夫のことを思い出した。

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