終末エレベーターの魔女

時織 虚

序章:邂逅と契約

第一話:屑鉄の街のレイ

 空を唯一突き刺す巨大な塔、ミリアド・コア。その最下層に広がる「鉄屑街スクラップタウン」は、今日も鼻を焼く有毒廃棄物の刺激臭と、影のように蠢くギャングたちの暴力的な気配で満たされていた。


 中層から絶え間なく垂れ流される汚水が、錆びた金属の壁面を赤黒く濡らし、空は常に鉛色のダストで覆われている。太陽の温もりも、星々の囁きも、この街の住人にとっては遠い御伽噺の産物だ。


 人々は、上層から稀に投げ与えられる、家畜の餌にも劣る僅かな物資で、かろうじて明日のない命をつないでいた。塔の外がどうなっているのか、正確に知る者は鉄屑街にはいない。ただ、「外は」という絶望的な言い伝えだけが、親から子へと囁かれる子守唄代わりだった。


 レイ・グラフト、十五歳。この鉄屑と絶望が幾重にも堆積した街で、彼はスクラップ拾い――実質的には死体漁りにも似た行為――でその日の糧を得ていた。年の割に痩せこけたその身体には、生々しい傷跡が絶えない。


 吐き出す言葉は皮肉と諦観に彩られているが、その灰色の瞳の奥底には、この理不尽な現状への燃え尽きることのない憤りと、見たこともない「外の世界」への漠然とした、しかし消せない憧憬が、まるで熾火のように燻っていた。


 今日の獲物は、崩落した旧時代の機械構造物の奥深くから、汗と油と、そして微かな血の匂いにまみれて引きずり出した銅線少々と、全体が赤錆に覆われながらも、まだ歪な武器として使えそうな太い配管パイプ。


 レイは手慣れた様子でパイプの先端をコンクリートの破片に何度も叩きつけ、鋭利とは言い難いが、それでも無いよりはましな刃を形成する。即席の「水道管ブレードパイプブレード」。それが彼の唯一の武器であり、時に工具ともなる、鉄屑街での生存術の象徴だった。


 腕には、細切れになった銅配線をバンデージ代わりに何重にも巻き付け、金属の冷たさが常に彼の肌にまとわりついている。


 そして、彼の痩せた首からは、一つだけ歯が欠けた古びたが、荒い呼吸に合わせて小さく揺れていた。それは物心ついた時から身に着けている唯一の装飾品で、彼にとっては幸運のお守りのようでもあり、あるいは失われた過去と自分を繋ぎとめる唯一の楔のようでもあった。このペンダントが、彼の運命を大きく揺るがすことになるなど、レイ自身は知る由もなかった。


 街の支配者であるギャング「スカルヘッド」が牛耳る交換所は、今日も力と恐怖によって運営される不条理劇場そのものだった。


 レイが差し出した、今日の労働の成果であるスクラップの山を、検品係の刺青だらけの巨漢が、まるで汚物でも検分するかのように足で無造作に蹴散らす。金属同士が擦れる耳障りな音が、薄暗い交換所に虚しく響き、男の歪んだ唇が嘲笑を浮かべた。


「…チッ、またこんなガラクタか。パンの欠片一つくれてやる。ありがたく思えよ、クズが」


 吐き捨てるような言葉と共に、石のように硬く、カビの生えかかったパンの塊が、泥のついた床に放り投げられる。


 レイは、喉の奥で燃え上がる屈辱と怒りを、冷たい諦観の壁で無理やり押し殺し、無言でそれを拾い上げた。ここで僅かでも反抗的な態度を見せれば、返ってくるのは容赦ない暴力だけだ。


 この鉄屑街では、力こそが絶対の法であり、弱者はただ搾取され、踏みつけられるのが揺るがぬ摂理だった。彼の心の中で、熱く黒い何かが一瞬燃え上がりそうになるが、すぐに冷え切った諦めがそれを覆い隠す。


 交換所を出ると、煤けた壁にもたれかかり、虚ろな目で虚空を見つめている顔なじみの少年たちがいた。彼らもまた、この巨大な塔の歯車にすらなれない、使い捨て部品のような存在だ。


 レイは無言で近づき、受け取ったパンの半分を無造作にちぎって差し出す。少年の一人が、感情の読めない目でそれを受け取り、貪るように口へと運んだ。言葉はなかった。


 しかし、その無言のやり取りの中に、この灰色の世界で唯一、レイが感じることのできる微かな温もり――刹那的な仲間意識とでも呼ぶべきものが存在していた。


「なあ、レイ。聞いたか? 最近、あの『廃棄区画』で、旧世界のデータチップが見つかったって噂だぜ。それも、とんでもない代物らしい」


 仲間の一人が、周囲を警戒するように声を潜めて囁いた。その瞳には、恐怖と、しかしそれを上回るほどの微かな興奮の色が揺らめいている。


 廃棄区画。そこは、鉄屑街の住人ですら、死を覚悟しなければ足を踏み入れない禁断の領域。鉄屑街よりもさらにタワーの構造体の底に近く、有毒なガスが霧のように滞留し、旧時代の自動化された防衛システムが、まるで亡霊のように未だに稼働していると噂される場所だ。不用意に近づけば、生きては戻れないと誰もが信じていた。


「データチップ? そんなガラクタ、今更どうするってんだよ。どうせ、くだらねえ噂話だろ」


 レイは、わざと興味などないという風に、吐き捨てるように答える。だが、その言葉とは裏腹に、彼の心臓が小さく、しかし確かに脈打った。旧世界の遺物は、時に信じられないほどの高値で取引されることがある。もし、その噂が本当で、価値のあるデータチップだとしたら…?


 一攫千金。それは、この最底辺の生活から抜け出すための、あまりにも甘美で、そして危険な響きを持つ言葉だった。そんな都合の良い話があるものか、と彼の理性が冷ややかに囁く。


 だが、心のどこかで、万に一つの可能性に賭けてみたいという、焼けつくような渇望が頭をもたげていた。あるいは、それは単に金のためだけではないのかもしれない。


 この息詰まるような日常、明日も見えない絶望から、ほんの一瞬でも抜け出せるかもしれないという、淡く、しかし抗いがたい期待。何か、この錆びついた運命を変えるきっかけが、そこにあるのではないかという、根拠のない予感。


「…馬鹿馬鹿しい。寝言は寝て言えよ」


 レイはそう吐き捨てると、仲間たちに背を向け、乾いた土埃を蹴り上げた。


 いつもの寝床である廃コンテナへと向かう彼の足取りは、しかし、無意識のうちに、いつもとは違う方角――鉄屑街のさらに奥、不気味な静寂と死の匂いが漂う廃棄区画へと続く、薄暗い通路へと吸い寄せられていた。


 危険は承知の上だ。だが、何かを変えるためには、時には狂った選択肢に手を伸ばすしかない。それが、この鉄屑の街で生きるレイ・グラフトの、数少ない、そしてあまりにも危うい選択肢の一つだった。


 彼の胸の奥で、錆び付いていた何かが、軋むような音を立てて、新たな運命へと向かって動き始めたような気がした。首に下げた欠けた歯車のペンダントが、まるで彼の決意に呼応するかのように、微かに熱を帯びたような錯覚を覚えたが、彼はまだその意味を知る由もなかった。

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