第十九章 知らない誰かの面影
第十九章では、香月の中で次第に深まっていく“記憶”の断片と、それでも進もうとする現在の関係との間で、心が揺れ始めます。
そして、ある偶然の出会いが、小さな波紋を広げていきます。
「Kino」の休日。
香月は久しぶりに街へ出た。
何か特別な目的があったわけじゃない。ただ、心を整理したくて、人の流れの中に身を置きたかった。
けれど、雑踏の中にいても、頭の中にはあの味が残っていた。
ストロベリータルトの、あたたかくて、やさしい味。
そして、その向こうに浮かんでは消える、名も知らぬ記憶の気配——
(あの声……。あの笑顔……)
まるで自分の心の奥に、もうひとつの人生が眠っているようだった。
「……うちのタルトに似てるね」
ふと、耳元で聞こえた声に我に返った。
香月が立ち止まっていたのは、小さなパティスリーの前だった。
ショーケースにはいくつかの苺のタルトが並び、ほのかにバニラの香りが漂っている。
隣に立っていたのは、長身で穏やかな笑顔をした女性だった。
「あ、ごめんなさい、突然。わたし、この近くの『Kino』ってカフェのタルト、好きで……ちょっと似てるなって思ったの」
「……『Kino』、知ってるんですね」
香月が答えると、彼女は優しく頷いた。
「うん。……大切な人が、生前よく食べてたから。あそこのストロベリータルト」
胸の奥が、ざわっと揺れた。
「その人……どんな方だったんですか?」
彼女は少し驚いたように香月を見たあと、微笑んで言った。
「陽だまりみたいな人だったよ。明るくて、よく笑ってて。
いつも冗談ばかりで、人のことをすぐ気遣うような、……そんな人」
言葉の一つ一つが、香月の心の中に沈んでいく。
そしてその描写は、香月の中の“記憶”と、不思議なほど重なった。
「……ごめんなさい。突然、変なこと聞いて」
「いいの。思い出すの、悪くないから。
わたしも、もうずいぶん時間が経ったし……。でも、“彼”が好きだったものは、いまでもちゃんと覚えてる」
“彼”——
たったそれだけの言葉に、香月の心臓が静かに跳ねた。
(もしかして……)
名前を聞くのが、怖かった。
けれど、知らずに口が動いた。
「……その人の名前、聞いてもいいですか?」
女性は一瞬だけ迷ったあと、静かに口を開いた。
「マサキ。……彼の名前は、間宮匡樹(まみや・まさき)っていうの」
その名前が、香月の脳に鋭く突き刺さった。
どこかで——いや、何度も聞いてきた気がした。
「……マサキ……さん」
思わず繰り返すと、彼女は少し目を伏せた。
「涼月くんが作るタルトが、彼は大好きだった。最後まで、変わらなかったよ」
香月は、言葉を失った。
“マサキ”
“涼月”
“ストロベリータルト”
今まで断片だった記憶や感情が、ゆっくりと繋がり始めていた。
けれど、その核心に踏み込む勇気はまだ、香月の中にはなかった。
「……ありがとう、話してくれて」
「ううん。こっちこそ、聞いてくれてありがとう。……不思議だね。あなたの声、少し似てる気がする」
そう呟いた彼女の言葉に、香月は思わず息をのんだ。
けれど、彼女はすぐに微笑んで、「気のせいかな」とつぶやき、歩き去っていった。
香月はその場に立ち尽くしていた。
誰かの記憶と、自分の人生が、ゆっくりと交差し始めている。
けれど、それでも——涼月の前では、まだ何も言えない。
(……俺は、どうしたいんだろう)
心臓の奥で、まだ知らない“何か”が、微かに脈打っていた。
※次章では、香月が“マサキ”という名前を知ったことで心が揺れる一方、
涼月との関係にも、ついにひとつの選択が迫られます。
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