プロローグ


——この鼓動が、誰のものでもなくなるまで


目を閉じると、闇のなかに響いていた。

不規則でか細く、けれど確かに生きようとしている「音」。

それは、病室の静寂にまぎれて、ただひとり、胸の奥で鳴っていた。


香月は、死と生の境目で揺れていた。

心臓移植を控えた、真夜中。

誰かの命が、自分の中に来るのだと、頭ではわかっていても——

胸のどこかがざわついて、眠れなかった。


(誰の心臓が、俺の中に来るんだろう)


それを知ることはできない。

けれど、もしその鼓動が、何かを覚えていたら。


誰かを想った記憶を、

誰かを愛した痛みを、

生きた証を、引き継いでいたら——


香月はそっと、胸に手を当てる。


(この鼓動は、どこへ向かうんだろう)


その問いの答えは、まだ知らない。


けれど、それが「誰かの終わり」ではなく、

自分の「はじまり」になるように——


祈るように、目を閉じた。


そして、物語は始まる。

ふたつの心が、重なっていく軌跡として。



春の風は、心臓にやさしい。

そう思ったのは、退院してすぐの午後だった。


街のざわめきにまだ慣れず、誰かの心音が自分の胸の奥で鳴っている気がして、足を止めた香月は、ふと甘い香りに誘われるようにしてカフェに足を踏み入れる。


木の温もりに包まれたその場所には、ひときわ静かな空気と、凛とした男がいた。

涼月。初めてその名前を聞いたとき、なぜか胸が少しだけ、痛んだ。


そしてショーケースに並ぶ、鮮やかなストロベリータルト。

「なんとなく、食べたくなったんです」

そう言った自分の声が、自分のものじゃないような気がしていた——


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