夜鳴きピザ 火天馬(ぴあんま)
風見 悠馬
第1話 年の瀬の煙と謎の円盤
年の瀬も押し迫り、江戸の町はどこもかしこも慌ただしい空気に包まれていた。神田明神下の裏通りも例外ではない。煤払いを終えた家々からは年の暮れの挨拶を交わす声が聞こえ、正月飾りを売る小ぶりの市が辻に立っていた。そんな喧騒の中、日もとっぷりと暮れた横丁の一角で、ひときわ異彩を放つ屋台があった。小さな稲荷社の向かいに据えられた、その屋台の名は「火天馬(ぴあんま)」。窯から立ち上る煙は、醤油や出汁の香りとは似ても似つかぬ、不思議に食欲をそそる香ばしさを漂わせていた。
「なんだい、ありゃ? 例の風変わりな屋台が、また何か始めたのかねえ」
手甲脚絆の男が、連れの男に顎で示した。年の頃なら三十路半ばだろうか、一ノ瀬創と名乗るその男が営む屋台「火天馬」は、この界隈ではすでにちょっとした噂の種だった。
「ああ、ぴあんまだとかいう、妙な丸いもんを出す店だろ。ハイカラな食い物だって話だが、お値段もちょいと張るらしいぜ」
「ふん、そんな得体の知れねえもんに銭を払う奴の気が知れねえな」
男たちはそう言い捨てて通り過ぎたが、その鼻腔に残る未知の香りに、どこか後ろ髪を引かれる思いがした。
その「火天馬」の主、一ノ瀬創は、額に汗を滲ませながら黙々と窯の火力を調整していた。手拭いを鉢巻きにし、年の頃は二十代後半。その目つきは真剣そのもので、時折、窯の奥の炎を見つめる瞳には、深い知性と、どこか遠い場所を知っているかのような影が宿る。彼が腰に差した、取っ手のついた円盤型の奇妙な金属の道具は、道行く人々の好奇の的だった。
「創さん、行灯の用意、だいたいできたよ! あと、お糸のおばあちゃんが、これ使っておくれって、お団子を少し持ってきてくれたの!」
甲斐甲斐しく声をかけてきたのは、煮売り屋「駒形屋」の一人娘、お咲だ。十六になる快活な娘は、今宵の「火天馬」の特別な催しに胸を躍らせている。屋台の周囲には、彼女が飾り付けた百八つを目指すであろう行灯が、まだまばらに置かれている。そこには「煩悩祓いぴあんま 一ノ瀬創」と墨痕鮮やかに書かれた大きな看板も立てかけられていた。
「ありがとう、お咲ちゃん。お糸さんにも後でお礼を言わないとな」
創は柔和な笑みを返したが、その口調には江戸っ子とは微妙に違う響きがあった。
「へっ、煩悩祓いだなんて、またあの旦那らしい、おかしなことを考えたもんだ。そんなもんで人間の業が消えるなら、坊主も閻魔様もいらねえやな」
腕を組み、少し離れた場所から様子を窺っていたのは、夜鳴き蕎麦「桔梗屋」の源爺だ。渋面で悪態をつきながらも、その目は創の手元や窯の構造に興味深そうに向けられている。昔気質の頑固な蕎麦職人で、創の作る「ぴあんま」を最初は「なんだか分からん食い物」と眉をひそめていたが、近頃はその味と創の料理に対する真摯な姿勢を、少しばかり認めているような節もあった。「だが、まあ、景気づけにはいいかもしれねえな。年の瀬だ」ぽつりと付け加えた言葉に、ほんの少しの温かさが滲んだ。
その隣では、天ぷら屋「揚げ辰」の辰五郎が、ニヤニヤしながらお咲に声をかけている。
「お咲ちゃん、そんな変な旦那の手伝いより、俺の天ぷらでも手伝ってくれよ。そしたらとびきり旨いの、揚げてやるぜ。なんなら、ぴあんまとやらに乗せる天ぷらでも考えてやるが、どうだい?」最後の言葉は、明らかに創に向けた挑戦的な響きを含んでいた。
「辰兄(たにい)はすぐにそうやってお咲をからかうんだから! 創さん、気にしないでね」
頬を膨らませるお咲の背後から、お駒が呆れたように声をかけた。彼女は「駒形屋」の威勢の良い女将で、創がこの横丁で屋台を始めるにあたり、何かと世話を焼いてきた。「うちの煮込みも、ぴあんまとやらには負けないけどね!」とからりと笑いながらも、その目には創の新しい試みへの期待が宿っている。
「でも創さん、本当にこんな催しで客が集まるのかねえ。まあ、何かあったらアタシが一声かけてやるけどさ」
「ありがとうございます、お駒さん。さあ、どうでしょう。でも、ただぴあんまを出すだけじゃつまらないでしょう? 大晦日ですからね、何かこう、記憶に残るようなことがしたくて」
創はそう言うと、窯の温度を確かめるために懐から小さな金属の筒を取り出した。アナログ式の温度計。もちろん、その正確な目盛りを読めるのは、この江戸広しといえど創一人である。源爺の鋭い視線が、その奇妙な道具に一瞬注がれた。
やがて、最初の客がやって来た。近所で評判の新しいもの好き、呉服屋の若旦那だ。
「創の旦那、噂のあれ、今夜なんだってな! 一番乗りで頼むぜ!」
彼は屋台の前の縁台にどっかりと腰を下ろし、興味津々といった体で窯を覗き込んだ。
「へい、いらっしゃい! 今宵最初のぴあんま、景気よく焼き上げますよ!」
創の声が、年の瀬の冷たい夜気に心地よく響いた。
用意してあった白い生地の塊を手に取ると、創の手つきはまるで舞でも舞うように滑らかだった。打ち粉を振った台の上で、生地はあっという間に薄い円形に姿を変える。そこに、彼が丹精込めて作った赤いソース――熟した赤茄子と、手に入る限りの香草を煮詰めたもの――が塗られ、さらに白い賽の目状のもの――牛乳と豆腐、白味噌を使い、試行錯誤の末に生み出した「もつぁれらもどき」――が手際よく散らされた。
「なんだい、そりゃ。赤いのも白いのも、見たことねえな」
若旦那が目を丸くする。創はにやりと笑い、長い木のヘラでそれをすくい上げると、赤々と燃える窯の奥へと滑り込ませた。
窯の中では、炎がぴあんまを優しく包み込む。やがて、生地の縁がぷくりと気泡を作りながら膨れ、香ばしい焼き色がつき始めた。赤いソースは煮立ち、白いもつぁれらもどきはとろりと溶けて、えもいわれぬ香りが周囲に立ち込める。数分後、創は焼きあがったそれを窯から取り出し、例の円盤カッターで小気味よい音を立てて六等分にした。湯気が立ち上る熱々の一切れを木の皿に乗せて、若旦那の前に差し出す。
「さあ、召し上がれ。今宵最初の『丸げりいた』です」
若旦那は、ごくりと唾を飲み込んだ。その丸い円盤は、確かに江戸のどこを探しても見つからない、不思議な食べ物だった。おそるおそる一切れを手に取り、ふうふうと息を吹きかける。そして、意を決したように、がぶりと食いついた。
途端に、若旦那の目が驚きに見開かれた。噛み締めると、生地の香ばしさともっちりとした食感。赤いソースの甘みと酸味、そして鼻に抜ける爽やかな香草の香り。とろりと溶けた白い塊の、濃厚で柔らかな味わい。それら全てが口の中で一つになり、未だ経験したことのない美味の洪水となって舌を襲う。
「こ、こいつは……!」
若旦那は言葉を失い、夢中で二口目、三口目を頬張った。その表情は、まさに至福そのものだった。
「旦那……こんな旨いもん、江戸中探したってありゃしねえぞ!」
叫ぶようなその声が、横丁に響き渡った。その声と、屋台から漂う抗いがたい香りに誘われるように、一人、また一人と、「火天馬」の周りに人々が集まり始めた。行灯の灯りが、ぽつり、またぽつりと増えていく。創は、胸の高鳴りを抑えながら、次々と寄せられる注文に笑顔で応えた。
「さて、今夜はどんなぴあんまで、みんなの煩悩を吹き飛ばしてやろうかな」
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