第3話 戦いの始まり

 結衣の視界に映るのは巨大な怪物――黒い影に赤い瞳が光り、不規則に歪む輪郭が不気味に揺れている。

 結衣は踏みこもうとしたが、やはり警戒して距離を取った。

 すぐ間近に神楽が現れて囁きかけてくる。


「どうした? なぜ距離を取ったのだ」

「だって、あれって殴っていいものなの? 怪物だよ?」


 結衣は前方にいる者を見上げて呟く。それは怪物のように牙を揺らし立ちはだかっている。

 足が動かない。頭が真っ白になり、心臓の音だけが大きく響く。


「怯むな。呪印は発動している。今のお前なら十分に戦える。むしろ警戒しているのはあやつの方よ。功を焦って出てきたものの、今のお前の力に恐れ慄いているのだろう」


 確かに神楽の言う通りなのかもしれない。相手もこちらの出方を伺っているようだ。

 耳元で神楽の冷静な声が響くが、結衣は動けなかった。


「で、でも……どうやって戦えば……!」


 アニメとかでは戦っている少女の姿を見た事はあるが、実際にはどうやればいいのか分からない。

 そんな事が出来ればプロ野球の選手の真似をして球技大会で大活躍できてしまう。

 結衣は運動は苦手だった。迷っている間にも相手が動く。

 怪物は甲高い唸り声を上げ、巨大な触手を振りかざした。結衣は反射的に身を引くが、地面を叩いた衝撃で校庭の地面が弾け飛んだ。


「なにこれ……普通の人間が相手にできるようなものじゃない……!」

「躊躇するな、結衣。呪印に意識を集中しろ。それがお前と我の力に繋がりを生む」

「えっ……呪印に?」


 神楽の指示に従い、結衣は右手に浮かぶ赤黒い紋様に意識を向けた。すると、脈動するような熱が腕全体に広がり、体が軽くなる感覚がした。


「よし、上手く巡っておる。次に、呪印の力を“解放”するのだ」

「解放って、どうやって……!? それにこれ呪いの力じゃないの……? 解き放っていいものなの……?」

「呪いを恐れるな。それは今はお前の力だ。感じろ。力を流し込むように。迷わず踏み込め」


 信じていいかは分からなかったが、結衣は意識的に前へ踏み出した。


「分かった。神楽ちゃんを信じてみる」

「そうだ。それでいい」


 足元に力が集まり、視界が一瞬ぶれた――そして、気がつけば怪物の眼前に立っていた。


「速い……!」


 自分の動きとは思えないほどの速度。驚く結衣を前に、怪物は再び腕を振り下ろしてくる。


「右へ跳べ!」


 神楽の指示が脳内に響く。結衣は反射的に右に跳ぶと、振り下ろされた腕が地面にめり込んだ。


「奴め、力の制御ができておらんな。いいぞ、そのまま手を前に突き出せ!」


 結衣は言われるがままに右手を前に出した。次の瞬間、呪印が赤く輝き、空気が震える。


「解放――“呪衝撃”!」


 手のひらから放たれた衝撃波が怪物を直撃する。黒い影は呻き声を上げて後退したが、まだ立っている。


「効いてない……!」

「いや、初めてにしては上出来だ。今のは技の名前か?」

「何かノリで。だって怖いんだもん!」

「気合が入るのは良い事だ。だが、力の流し方が不十分だな。弾くだけでなく流すことを意識しろ」


 神楽の冷静な声に、結衣は息を飲んだ。目の前の怪物が再び咆哮し、今度は四肢を地面に突き立てて突進してくる。


「どうするの!? あいつ興奮して突っ込んでくるよ!」

「焦るな、次は我が導いてやる。呪印を完全に解放するのだ」

「完全に……?」

「そうだ、我を受け入れろ――心の底から信じ、力を預けるのだ」


 結衣は一瞬ためらったが、怪物の迫力に抗いながら意を決して前を見た。


「いや……ここは私がやる!」

「なに?」

「何もかも教えられたままなんて赤ちゃんじゃないんだから。私を見てて!」


 次の瞬間、結衣の体が薄紅色の光に包まれ、呪印が灼けるように輝いた。瞳に赤い光が宿り、背筋が伸びる。


「これが……私の呪いの力……! 震えてないでここに収まれ!」


 結衣は震える手を握りしめ、再び怪物に向かって立ち上がった。


「あの力をもう制御するのか。面白い、汝の勇気を見せてみよ」

「言われるまでもない。ここからは私の反撃の時間よ!」


 自分の力を体の奥底から感じ取り、結衣は目の前の怪物を睨みつけた。

 瞳には赤い光が宿り、呪印が脈動するように輝いている。

 体が軽い。先ほどまでの恐怖が嘘のように消え、目の前に迫る敵の突撃がスローモーションのように見える。


「さあ、結衣。思う存分お前の手を振るえ」


 神楽の声が耳に響く。結衣は小さく息を整え、地面を強く蹴った。


 ――ドンッ!


 目にも止まらぬ速さで間合いを詰め、怪物の眼前に飛び込む。驚いたように怪物が止まろうと吠えるが、結衣の拳に手加減は無い。

 神楽の言っていたように警戒していたのは相手も同じだ。今それを知らしめる事になる。


「はあああっ!」


 渾身の一撃が怪物の胴体を打ち抜き、黒い煙が吹き出す。体が大きくよろめき、地面の上へと倒れ込んだ。


「や、やった……?」


 息を切らしながら見守る結衣。しかし、その喜びは一瞬でかき消された。


 ――ズズ…ッ!


 倒れたばかりの怪物がゆっくりと起き上がり、その身体がさらに膨れ上がっていく。赤い瞳が憎悪の炎を宿し、口元から不気味な声が漏れた。


「まだ奴の呪いは終わっていないぞ、結衣!」

「えぇっ!? あれだけ思いっきり殴ったのに!?」

「呪詛生物は怨念の塊だ。ただの物理だけでは消滅する事はない。お前の呪印で取り込むのだ」

「ええ!? あれ吸っていいものなの……!?」


 結衣は息を荒らげながら後退する。怪物は次第に膨れ上がり、腕も二倍近い長さに伸びている。


「どうするの……神楽、このままじゃ……」

「呪印を翳せ。奴の呪いを自分の物として取り込むのだ」

「ええ!? でも……気持ち悪いんだけど!?」

「仕方ない。我がやってやる。お前は目を閉じていろ」

「え? ちょっと……!?」


 神楽が指を動かすと結衣の手が勝手に持ち上がって怪物に向けてしまう。これから訪れる事を想像して結衣は反射的に拒んでしまう。


「いやいや! そんなこと出来ない!」

「こら! 我の意思に逆らうな!」


 争っている間に怪物は生きることを選んだのか、いつの間にかその場から逃走していた。


「良かった。吸わずに済んだ」

「安心するな。あいつはまた来るぞ」

「ええ!?」


 どうやら結衣はとんでもない事に巻き込まれてしまったようだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る