1.7 ふたたび居酒屋

 リルが耳を塞ぐ。


 乱痴気騒ぎとはこのことだ。


 店には疎らに客が集い、いつものように安酒で羽目を外していた。目当ては占い師の女だ。ベンネが客寄せに口裏合わせで雇っていた。


 客達は彼女にいいように遇われるために集まり、占い師はベンネから食事と身の安全を受け取っていた。


 場末の安酒場に通う最底辺の客は金があれば散財し、無ければ屋根を探して寝る、その繰り返しだ。彼らが谷間となればベンネの店は暇なのだ。逆にあぶく銭でも手に入れようものならお大尽である。ベンネの店はその幸運にあやかって生きていた。


 ところが最近は客が皆財布の紐を締める。底なしの不景気とインフレだ。その不安定さは飲食業に極度のストレスを齎した。店の主のベンネもその一人だ。まだ中年の盛りだというのに苦労で皺だらけだった。


「リル! 店の掃除は? 水汲みは? 表は掃いたのかい? 皿の一つでも拭いたのかい? 埃の一つでも見つけたなら容赦しないよ!」


 そう叱りながらリルに鞭打ちを食らわせるのだ。


 その彼女も市場の値切りに手間取り戻りが遅くなることが増えた。リルにとってはありがたい。痛い目に遭わずに済む。


 一方でリルを不安にさせる。店が潰れたら彼女は行くとこが無くなってしまう。安らぎと苦悩が彼女を分裂させる。衣服もだいぶすり切れてきた。ベンネはリルの格好など二の次だ。日に日にリルの姿はぼろ雑巾と変わらぬ色味に染まってきた。


 ベンネも自分に分が悪いときにはリルに優しくする。


 言葉で労ったり、食事の質を一つあげたり、色々だ。共通してるのはすべて金が掛からないことであり、彼女が飽きれば暴君に逆戻りだった。


 店で働き出して、リルはまだ、慣れない。


 特に孤独な生活が耐えがたかった。親も親戚も友達すらもその町には居なかった。

 すべて消えたのだ。


 あの日、公安警察が彼女の家族を分解した時からである。


「嬢ちゃん水くれよ!」とカウンター越しに注文してきたのは馴染みの客だった。


 酒癖が悪く、手癖も悪く、金払いも悪いと来てベンネから出禁を食らっていた。それでも居るのは賑やかしのためだ。

 そこは言わば都市の最低部。だから目が届くまいと客達が大統領の悪口に花を咲かせた。


「顔を見るとうんざりする」

「何十年も同じ顔だ」

「約束を守らないどころか知らない」

「嘘ばかりついている」

「奴の懐ばかり潤う」

「手下がホモしかいないし奴もホモだ」

「髪型が気色悪い」

「女の趣味が悪い」

「孕ませた女で町を作れる」

「ゲイだから軍のけつの穴を掘っている」

「今度の大統領の誕生日は喪に服す」


 およそリルには理解不能な言葉が溢れかえっていた。しかし肝心なことは皆黙っていた。


 例えば酒の勢いで『あの町の某が消えた』などと口走る者がいる。すぐさまベンネに耳打ちされた客が彼を店から追い出した。


 人が消えるのはよくあることだ。この店だってどこかに耳がある。


 安全ではない。


 客が減らないようベンネはいつでもくだを巻く客を悪罵した。余計なことを喋るなと。さながら口うるさい母のようにである。

 ここは擬似的な母の店だった。


 一人の老人がリルを見つけた。


「なあに。嬢ちゃんは心配いらねえよ。おめえが大きくなる頃には少しはよくなってんだろ」


「その頃には流石に大統領は死んでるだろうからな」とは仲間のペテン師の老人だ。彼は「それまでそのちびが生きてたらの話だけどな」と余計なことも付け加えた。


 流石に場が冷えてしまい別の仲間の老人が拳骨を食らわせて大笑いした。そのたちの悪い冗談にリルは神妙だった。いつか自分も死ぬのだと言う問いは彼女には遠大すぎた。


 新しい客が現れた。


 居酒屋の時が止まる。


 ゴミための居酒屋に全く不似合いな来訪者だ。来るわけがない新参者。先ほどまでの歓談と猥談に沸いた人々が黙りこくる。ベンネは基本新参者を歓迎する。老人ばかりではいずれ立ちゆかない。金があれば、である。


 やって来たのは、あの青年だ。


 目ざといベンネは大して金にならなそうと訝る。意地悪な質問の一つや二つで根を上げるか試そうとする前にリルが割り込んだ。


「い、いらっしゃいませ! 何になさいますか!」


 その勢いに青年は身を引いてしまう。昼間の少女が夜も働いていて驚く。なんとか微笑むとリルを脇に退かせた。彼はベンネに用があった。


「……こちら一晩泊まれるということでよろしいですか?」


 宿泊目当ての客など初めてである。彼女が青年の素性を疑っていると彼は自分は学生だと言って身分証を提示した。ベンネはその札を見もせず大学生かどうかなどお構いなしだ。


 彼女は疑り深い。当然だ。


 この最果ての地はすべての人間が潜在的な敵だった。危険を嗅ぎ取れねば簡単に破滅だ。そこに先ほど余計なことを口走った老人が乱入してきた。


「こいつは本物だな。俺が働いてたときに見た」


「そういやあお前大学の職員とか吹いてたな。誰も信じちゃいねえがよ」とはカウンターの老兵士だ。元大学職員と称する老人は青痣の顔で酒を呷って答えた。


「大学ってのは怖いとこでよ。見栄と嫉妬が渦巻いてる場所だ。俺が追い出されたのもひでえ話で……あん、今は聞きたくねえってか?

 そうだな、その学生も大方そんなもんに巻き込まれてこんなゴミ捨て場に来ちまったんだろうぜ」


 屈辱を感じていた学生だが堪えていた。彼だって来たくて来た訳ではない。その正直さがベンネの気に障る。

 彼女のリスク管理は例外を認めないことだ。リルの望みを叶える訳もなくすげなく断ろうする。


 そこに思わぬ援軍が現れた。色に狂った男達を遇っていた占い師のノーラだ。彼女はふくよかな身体を揺らせてカウンターまでやってくると青年を擁護する。


「いいじゃないベンネ。

 この店は爺ばかりで飽き飽きしてたのよ。

 たまには若い子が来るなんて素敵じゃないのかしら? あなただって若い子の方が好きでしょ?」


 年齢不詳の占い師を年齢以上に老けているベンネは苦手としていた。彼女と言い合いたくはないが一つ釘を刺す。


「じゃあこの若いのがしでかしたら責任とってくれるんだね、ノーラ?」


 ノーラが了承するので呆れたベンネは青年に言ってやった。


「こいつは吸血鬼だよ。せいぜい魂まで吸われちまわないよう気をつけることだね。それと前金だ。当たり前だろ」


 お金なら問題ないと青年は口を滑らしそうになった。報酬を得ている。この場所を指示したメモと共に受け取ったのは必要経費だった。彼は今すぐにでもこの呪われた金を手っ取り早く浄財したかった。


 彼はベンネの言値で払ってしまい更に警戒されてしまう。

 店の客の雰囲気は歓待に代わった。ノーラが引き入れた今夜のネタだ。取り巻きらが率先して受け入れた。


 青年は老人達から無理矢理飲まされそうになり断り続けた。そのたびに彼らが罵声を浴びせ大笑いする。調子に乗ったノーラが煽りベンネの不機嫌は計り知れない。


 リルは宴が終わるのを待ち侘びていた。仮宿への案内は彼女の役目だ。狂宴から抜け出た青年がリルに気づく。


 その疲れ切った微笑みはリルにとって天にも登る気持ちにさせた。

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