『静けさの向こうへ』 ⑤
「……もう一度、会いたいんです」
清瀬がフィリアに向き直り、真っ直ぐに言った。
「どうすれば、彼女に……美咲に、もう一度会えますか?」
フィリアはその言葉に少しだけ言い淀んだ。視線を落とし、答えを探すように口元に指を添える。
そのときだった。
ふわりと光が揺れ、清瀬の肩の高さに青白い球体が現れた。
「言いにくいことは、わたくしが代わりに申し上げますわ」
すました声が空中から響いた。ルミナだった。
「方法はひとつ。もう一度、記憶の泉に手を入れ、“強く願う”ことです」
「……それだけで?」
「ただし……最初に申し上げた注意事項、覚えていらっしゃいますね?」
清瀬は黙って頷いた。
「記憶はあくまで記憶。過去を変えようとしたとき、泉は拒絶反応を示します。心して臨んでくださいませ」
再び泉の縁に立った清瀬は、そっとひざをつき、ゆっくりと両手を水に差し入れた。
「……会いたい」
声は、風の音にもかき消されるほど小さかった。
だが泉は、それに応えるように光を増した。
水面が揺れ、無数の粒子が舞い上がる。
やがてその中心に、淡い青色を帯びた“水の塊”が現れる。
それは人の背丈ほどの大きさで、肩や頭の形がかすかに浮かび上がっていた。
まるで、人の形をとろうとしているかのように。
清瀬は、息を呑んだ。
水の塊は、静かに揺れながら、その形を少しずつ整えていく。
そして、清瀬の方へとわずかに傾いた。
「……美咲か?」
震える声で問いかける。
その問いに、水の塊はゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
その瞬間、清瀬の瞳には、かつて愛した女性――美咲の姿が、確かに映っていた。
柔らかな髪、穏やかな目元、そして静かに微笑む唇。
「……会いたかった。ずっと……」
清瀬は、泉の前に座り込むようにして、水の存在を見つめ続けた。
一方で、少し離れた場所からその光景を見ていたフィリアとルミナは、静かに顔を見合わせていた。
「……これ、はたから見たら、水たまりに話しかけてるだけですわよね」
ルミナが毒舌混じりにささやく。
「まったく、恋は盲目とはこのことでしょうか……いえ、盲目どころか、もう別の次元に突入してますわ」
「ルミナ〜、愛の形は人それぞれですのよ?」
「はいはい、わたくしも理解はしております。頭では、ね」
それでも、フィリアは微笑みながら泉の方を見つめていた。
その表情には、どこかほんの少しだけ、羨ましさのようなものが浮かんでいた。
泉の前では、清瀬と美咲が静かに見つめ合っていた。
言葉はなかったが、目と心が通じ合っているような、そんな時間が流れていた。
清瀬は、ゆっくりと手を伸ばした。
触れられるのかも、わからない。
けれど、どうしても触れたかった。
この手で、もう一度――
そのとき、フィリアの声が鋭く響いた。
「清瀬さま、いけませんわ!」
清瀬の手がぴたりと止まる。
「……先ほど申し上げましたでしょう? “記憶はあくまで記憶”。それを変えようとしてはならないのです」
フィリアの目は真剣だった。彼女の穏やかな口調からは想像もつかないほど、強い意志が込められていた。
「……ごめん」
清瀬は、ゆっくりと手を引っ込めた。
ただ、再び美咲の“姿”を見つめ、目だけで語りかけた。
ふたりの間に流れる空気は、再び静かで、そしてあたたかかった。
しばしそのまま時を過ごした清瀬は、泉の傍でそっと口を開いた。
「……フィリアさん、お願いがあります」
フィリアが静かに顔を上げた。
「滞在時間、延ばせませんか? 延長料金、ちゃんと払います。だから……もう少しだけ、ここにいさせてください」
フィリアは少しだけ驚いたように目を瞬かせたあと、やがてふっと微笑んだ。
「本来は規定時間まで、ですが……わかりましたわ〜。特例ということで。二日後にお迎えに参りますので、それまでにご準備を」
「ありがとうございます。本当に……」
フィリアはそのまま小さく頭を下げると、ルミナとともに泉を離れ、事務所へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
二日後、約束どおりフィリアは現れた。
清瀬は静かに頷き、泉と美咲に別れを告げると、再び地球へと戻った。
NEXUSのカウンターで、フィリアが改めて確認するように尋ねた。
「清瀬さま、このまま“永住”という形で、フォスティリアへ移住されますか?」
清瀬は一瞬驚くが、迷わず答えた。
「はい。ぜひお願いします」
その答えに、フィリアは穏やかに頷いた。
「では、移住にかかる費用は全財産をもっていただく形となりますが、よろしいですか?」
「構いません。……全部持ってきます」
◇ ◇ ◇
それから一週間後、清瀬は現金を手にNEXUSを訪れた。
用意されていたのは、前回とは異なる、重厚な装飾の施された魔法の腕輪だった。
「こちらは“完全版”でございますの。魔力の充填が不要で、永住者専用の仕様となっております」
清瀬は無言で受け取り、静かに頷いた。
転送の後、彼が新たに暮らすことになったのは、泉の近くにある小さな村だった。
その村で、清瀬は静かに、美咲と共にある“これから”を歩み始めた。
彼が選んだのは、泉の番人という役目だった。
旅の者が迷い込んだとき、あるいは失ったものを探しに来たとき、彼は静かに寄り添い、案内する。
かつての自分のように、大切な記憶と向き合いに来た誰かのために――。
そして、記憶の中でしか存在しなかった美咲は、このフォスティリアの地で再び“かたち”を得て、清瀬のそばにいた。
ふたりはささやかな式を挙げ、村の人々に祝福されながら、夫婦となった。
清瀬の新しい人生は、記憶の泉の傍で、静かに、しかし確かに流れ続けていく。
◇ ◇ ◇
そして場面は再び、NEXUSの事務所。
転送を終えて戻ったフィリアが、カウンターの奥で帳簿を閉じたそのとき、ミルフィが紙の束を抱えてひょっこり顔を出す。
「はいにゃ、清瀬さんの移住申請関係ぜ〜んぶ終わったにゃん。戸籍登録から魔力滞在許可証まで、抜かりなくやっといたにゃ!」
「まあ〜さすがミルフィですわ〜。書類の処理だけは早いんですのよね〜」
「“だけ”って言ったにゃ!? 今“だけ”って聞こえたにゃ〜!??」
言い合いながらも、ふたりの表情は明るい。
ふと、フィリアが端末を開き、手元の報告書を確認する。
「……ふふふ、やっぱり入ってましたわ〜。清瀬さまの“愛の力”って、魔力変換効率がとても高いんですのね〜」
「つまり、世界に良質な魔力が還元されたってことにゃ?」
「ええ。そしてそれに伴って……」
フィリアが小さくガッツポーズをとる。
「私たち、特別ボーナス支給決定ですの〜♪」
「やったにゃ!! にゃふふふ、温泉旅行行こうにゃ! あと高級スイーツにゃ! お肉! 美容液! にゃっふ〜!」
「……ところでミルフィ〜、ご存じでした? 清瀬さま、移住前に“もしもの再会のために”って、お金をずっと貯めてたそうですのよ」
「えっ、マジにゃ? どれくらい?」
フィリアはくすっと微笑んで、指を二本立てる。
「二千万円、ですわ〜。支店長大喜びですわよ~」
「……うちにも“再会希望者”来ないかにゃあ〜」
ミルフィの目が、妙にきらきらと輝いていた。
そのとき、事務所の片隅に置かれたテレビから、ふとアナウンサーの声が漏れ聞こえた。
「……次のニュースです。東京都内の銀行で、清瀬衛さん(48)が全財産を引き出した後、消息を絶ちました。警察は事件・事故の両面から捜査を進めています――」
けれどその声は、にぎやかに盛り上がるふたりの耳には、まるで届いていなかった。
――清瀬衛、異世界移住完了。
静かになった事務所の空気の中、ルミナがふわりと宙に浮かびながらつぶやいた。
「……結局のところ、“本気の愛”って、魔力換算するととんでもない資源価値になるんですね」
「そうですわね〜」
カウンターの奥からフィリアのふわっとした声が重なる。
「……でも、どこかロマンチックでしたね。最後、泉の前で“美咲”と呼んでいたあの顔……少し、心を打たれましたわ」
「ふふ、それであなた泣いてたんですの?」
「なっ……泣いてなどいません! あれは単に、魔力粒子が目に入っただけですわ!」
「はいはい、そういうことにしておきますわ〜」
ルミナとフィリアの笑い声が、また静かに響く。
その背後で、NEXUSの看板が夕日に照らされ、ほのかに輝いていた。
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