『静けさの向こうへ』 ③
数日後の朝、清瀬は有休を取り、再びNEXUSゲートツアーズの扉をくぐっていた。
前回と同じように、路地裏の空気はひんやりとしていて静かだったが、不思議と気持ちは穏やかだった。目的をもってこの場所を訪れるのは、初めてのことかもしれない――そんな感覚が胸にあった。
「おはようございますわ〜。お待ちしておりましたの」
迎えたのは、やはり銀髪のフィリアだった。相変わらずののんびりとした口調で、しかしどこか旅立ちの空気をまとっている。
「今日が出発ですね。準備はよろしいですか?」
「まあ……一応、心の準備だけは」
清瀬が苦笑すると、フィリアも楽しげに頷いた。
「では、奥へどうぞ〜。出発前にいくつかご案内がございますの」
そう案内されてカウンターを抜けたそのとき、別の部屋から顔を出した人物がいた。
「お客さーん、行ってらっしゃいにゃ〜!」
ひょこっと顔を覗かせたのは、猫耳と尻尾のついた少女――ミルフィだった。
「……え?」
清瀬の思考が一瞬止まる。ピクリと動く耳、柔らかそうな毛並み、ぱたぱた揺れるしっぽ。
「猫耳……?」
「はい〜、弊社のもうひとりのスタッフでございますの。今日はお留守番ですけれど、こう見えて事務能力はとても高いんですのよ〜」
「にゃふん♪ 留守番も立派なおしごとにゃ!」
どこまでが冗談で、どこからが真実なのか。清瀬は内心でツッコミながらも、何も言えずに軽く会釈を返すしかなかった。
案内された部屋のテーブルには、小さな箱が置かれていた。
「こちらが、旅の間に着用していただく魔法の腕輪・アジャストリングですの」
フィリアはふたを開け、中からシンプルな銀の腕輪を取り出した。
「これを着けることで、異世界の空気や病原体、言語などに適応できるようになりますの。あとは、ごく簡単な魔法的保護と、時間制限の通知機能もついておりますのよ〜」
「時間制限……?」
「はい〜。滞在可能時間は最大で四十八時間までとなっておりますの。
時間を過ぎると帰還できなくなるおそれがございますので、ご注意を」
「……帰れなくなるって、サラッと言いましたね」
「でも大丈夫ですわ〜。お客様が迷わず進めるよう、私がしっかりとご案内いたしますの」
その穏やかな言葉に、清瀬は思わず肩の力を抜いていた。
フィリアに促されて奥の部屋へと進むと、そこには小さな円形の転送魔法陣が刻まれた床が広がっていた。幾何学的な模様が淡く光り、まるで生きているかのように鼓動している。
「こちらが転送の間ですわ〜。魔法陣に立っていただければ、私と一緒に目的地へ移動いたしますの」
清瀬は緊張した面持ちで魔法陣の中心に立った。腕輪・アジャストリングがかすかに熱を帯びる。
「では、いきますわ〜。目を閉じて、深呼吸してくださいませ」
フィリアの言葉に従って目を閉じると、次の瞬間、足元から風が巻き上がるような感覚が清瀬を包んだ。視界のない暗闇で、光の粒が流れるように駆け抜けていく。ふっと身体が浮かんだかと思えば、すぐに重力が戻ってきて、足元に確かな感触が蘇る。
――着いた。
目を開けると、そこはまったく見知らぬ土地だった。
柔らかな緑に包まれた平原。道は舗装されておらず、踏みならされた土が続いている。周囲には石造りの低い家々が並び、煙突からは細く煙が立ち上っていた。遠くでは子どもたちの笑い声が聞こえる。空は少し白んだ青で、太陽は地球よりもやや低く感じられた。
「ここは“エンブレ村”といいますの。魔法王国ルメイルの南端に位置する、小さな農村ですわ〜」
フィリアが説明を加える。
「この世界“フォスティリア”では、村ごとに文化や生活様式がかなり違いますの。エンブレ村は自然との共生を大切にしていて、外来の者にも優しい場所ですわ」
清瀬は周囲をぐるりと見回した。どこか懐かしくて、しかしまったく異質な、絵本のような風景。そして目的の泉に最も近い村である。
ここが、異世界――。
現実味のないその実感に、清瀬はようやく口元をほころばせた。
村の入口から少し離れた道を、フィリアと並んで歩く。
泉までは村からおよそ一キロ。道沿いには野草や畑が広がり、素朴な木製の標識がところどころに立っていた。
「ここから記憶の泉までは、徒歩で十五分ほどですのよ〜」
軽やかな声とともに、フィリアが日傘をくるりと回す。
「到着前に、泉での注意事項をご説明しておきますわね」
「はい、お願いします」
清瀬が頷くと、フィリアの表情が少しだけ引き締まった。
「メモリスは、見る者の心に強く作用する場ですの。
目にするものはあなた自身の記憶に基づくため、完全な“真実”とは限りません。
ですが……そこに映るのは、あなたの心が本当に知りたかったこと、向き合うべきことなのですわ」
「それと、もうひとつ重要なことがございますの」
清瀬がちらりと横目で見ると、フィリアの声が少しだけ硬くなっていた。
「たとえ何が見えても、それに“触れよう”とはしないでくださいませ。
記憶はあくまで記憶ですの。過去を変えることはできませんし、変えようとしたとき、泉が拒絶反応を示すこともございます」
「……わかりました」
しばらく無言で歩いたあと、遠くの林の向こうに、淡く光を放つ水面がちらりと見えた。
泉は森の奥にひっそりと存在していた。木々の枝葉がやわらかく光を遮り、足元には苔むした石と湿った土の匂いが漂っている。差し込む木漏れ日が、水面に反射して揺れていた。
そのとき、近くの茂みからかさりと音がした。
清瀬が目を向けると、丸い体と大きな耳をもつ、小さな動物がじっとこちらを見つめていた。つぶらな瞳が瞬きを繰り返し、何かを観察しているようだった。
「……あれは?」
「ルミンですわ〜。森に住む小動物で、魔法の気配にとても敏感なんですの」
ルミンと呼ばれたその生き物は、警戒するようにしっぽをふるふると震わせながらも、逃げることなく清瀬を見つめ続けていた。
フィリアはその様子を眺めながら、ふと視線を遠くにやった。
「……あの子も、初めて来たとき、じっと見つめられていたのを思い出しますわ」
「“あの子”?」
「前にこちらをご案内したお客さまですの……ちょっと不器用だけれど、とてもまっすぐで。ふふっ、あの子、やっぱり特別なんですのよね〜」
フィリアの声にはどこか懐かしさが混じっていた。
清瀬はルミンの瞳と目を合わせたまま、胸の奥でかすかに湧き上がる不思議な感覚を感じていた。
やがて、フィリアが一歩前に出て、泉の縁をそっと指し示した。
「……どうぞ、清瀬さま。ご自身のタイミングで」
清瀬は一度、唇をかみしめた。胸の奥が静かに軋む。――それでも、と歩を進めた。水面は鏡のように静まり返っており、周囲の木々を映し込んで揺れることもない。
美咲のことを思い出そうとする。姿は思い出せない。けれど、笑い声や、何気ないやり取り、背中越しのぬくもり――断片が胸に浮かんでくる。
その記憶を抱いたまま、清瀬はゆっくりと泉に手を差し入れた。
指先が冷たい水に触れた瞬間、泉の中心が淡く光を帯び始める。
水面に広がる光は、まるで心音のように脈打ち、やがて視界を満たすほどに強く輝いた。
「……これは」
その言葉が漏れた次の瞬間、清瀬の身体の輪郭が、意識の中で静かにほどけていった。感覚は遠のき、音と匂いと色彩だけが、鮮やかに残る。
どこかで聞こえる駅のホームの音。遠ざかる足音。カップに注がれるコーヒーの音と、かすかな雨の気配。
――そこには、美咲と過ごした日々の断片が、ひとつずつ色を持って現れ始めていた。
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