『NEXUSゲートツアーズ ~フォスティリアへようこそ~』

明日はきっと

「不幸体質、異世界で救われる?」①

 午前5時30分。


 目覚まし時計のベルがけたたましく鳴り響く。


 カーテンの隙間からはまだ朝焼けの気配すら見えず、部屋は冷えきっている。


「……はぁ……」


 ベッドの中で小さくため息を漏らし、重たいまぶたを指で押さえる。

 スマホに手を伸ばせば、未読の仕事関連メールが深夜3時に届いている。


「例の資料、今朝9時までに仕上げられるかな?」という軽いノリのメッセージが、私の胃をきしませる。痛みとともに軽い吐き気がこみあげてくる。


「無理、って返しても……どうせ“努力が足りない”って言われるんだよね……」


 私が就職したのは、都内に本社を構える中堅の広告代理店。


 華やかなイメージとは裏腹に、その職場は友人が就職したブラック企業がかわいく見えるようなものだった。


 黄昏より昏く、夜よりもなお深き漆黒が、奈落の底を思わせる闇に包まれているような場所。それが、私に与えられた職場だった。


 今思えば新人研修の初日、「うちは他とは違う」と語った人事担当者の目は、今思えば異常なまでに輝いていた。


 きっと新人にいろいろと押し付けて逃げ出す算段を付けていたに違いない。


 毎朝の全体朝礼では、売上目標を“絶対達成目標”と呼び、前日の数字が届かなければ全社員が立ったまま反省会。


 終電で帰宅し、風呂にも入らず寝落ちして、また始発で出社する日々。


 休日に呼び出されることも珍しくない。


 久しぶりに会った友人に「5歳老けた」と言われ、心が折れたけど……それでも私は1年間耐え抜いた。



「新人が泣き言言ってたらダメだって……みんな頑張ってるし、私だって……!」


 そんな気持ちで踏ん張っていたある日、部長から言われた一言が胸に刺さった。


「君、何か“ツキ”がないよね。こういうの、運の問題っていうかさ」


 私の人生は、常に「うっかり」と「アンラッキー」に囲まれてきた。


 定期券を買えば翌日から長期出張、傘を持てば晴れ、忘れれば豪雨。電車に乗れば席の隣で飲み物をこぼされ、レジでは必ずといっていいほど、前の人がもめ始める。


 履歴書に貼った証明写真が逆さまだったこともある。いやこれは自分の不注意なのだが……

 運が悪い……そう言われてしまえばそれまでだし、言われることにも慣れている。


 でも「それでも頑張ろう」と思っていた。何度転んでも、いつか報われると信じていた。


 ……けれど、それも限界だった。



 その日は、イベント案件の進行ミスをなぜか押しつけられ、上司に会議室で1時間叱責されたあと、終電を逃し、雨の中を歩いて帰ってきた。


 靴の中はびしょ濡れ、傘は風で壊れ、コンビニで買ったカップラーメンはお湯を入れる直前で転んで中身をぶちまけた。


「私、なんで……生きてるんだろ」


 その夜は、布団の中で泣くことすらできなかった。

 ただ天井を見つめて、朝が来るのを怖れていた。


 翌日、私は初めて仕事を休んだ。

 強いめまいと吐き気。診断は「急性ストレス障害」。


 そのまま数日間の休職。


 上司からは連絡が来なかった。同僚からも誰一人、声はかけられなかった。


 心が折れた、というより、もう体が動かなくなっていた。


 不幸なのはいつものこと。


 それでも“自分で選んだ道”だからと納得し続けてきた私の中で、ひとつだけ確かだったもの……「努力すれば報われる」という信念が、音を立てて崩れていった。



「もし、違う世界があったら……こんな私でも、やり直せるかな?」


 そんな言葉が無意識に口から出た時。私の中で何かが吹っ切れた気がした。



 ある日の午後、私は重たい気分を振り払うように、久しぶりに外出していた。


 上司に散々嫌味を言われながら、退職届をたたきつけ、その勢いでハローワークでの求職相談へ向かった。


 少しだけ気持ちも軽くなり、駅前の古びた商店街をふらふらと歩く。



「もう、どこもかしこも“即戦力募集”ばっかりじゃん……」


 ハローワークで手に入れた求人票には、聞いたことのない企業名と「20代活躍中!」という文言が踊っている。


「アットホームな職場です!」その言葉に、なんとなく胸がざわついた。


 そんなことをぼんやり考えているうちに、空が暗くなり始めた。ポツ、ポツ、と頬に冷たいものが当たる。


「え、雨? うそ、天気予報じゃ晴れって……いつもの事だよね」



 慌てて周囲を見渡し、近くの雑居ビルの軒下へ駆け込む。

 ふと視線を向けた先、目に入ったのはドアに掲げられた1枚の看板。


【NEXUSゲートツアーズ】


 錆びたドアノブ、色褪せた看板。小さな窓の内側に貼られた紙には、こう書かれていた。


『こちらの世界に疲れた方、歓迎します』


「……なにそれ。怪しいけど、ちょっと惹かれるなぁ」



 好奇心とちょっとした期待感。ドアの向こう側から誰かに呼ばれているような感覚に吸い寄せられ、戸惑いながらもドアを開く。


 チャリン


 ドアベルが鳴り、次の瞬間、店の奥から人が出てくる気配を感じる。


「いらっしゃいませ。ようこそ、NEXUSゲートツアーズへ」


 銀髪のロングヘアを揺らしながら、気品ある女性がカウンターの奥から現れ、軽やかに頭を下げて来た。


 それと同時に、ガシャンという音が店内に響いたかと思うと奥からもう一人が現れる。


「うにゃっ!? お客さん!? フィリア、お客さん来たにゃー!」


 元気いっぱいの声とともに、頭の上に耳のついた少女が飛び出してきた。


 ふわふわでオレンジ色の髪に、ピョコリと動く猫耳。


 制服……なのかはよくわからないが、動きやすそうな格好に、ポシェットを斜めがけしたその少女は、尻尾を振りながら挨拶をしてきた。


「いらっしゃいませにゃ! ようこそ異世界旅行の窓口、NEXUSゲートツアーズへにゃ!」



 あっけにとられていると、猫耳少女がカウンターを飛び越えて私の前へと移動してくる。


 接客業の受付がカウンターを飛び越える姿は見たことが無いが、着地と同時に床に散らばったパンフレットを踏みつけ、勢いそのままに床に転んでいる。


「痛たた。わわっ、あわわわ……! うぅ、やっちゃったにゃ……」


「……え、えぇと……」


 とりあえず手を差し伸べ、転んだ少女に少女を立ち上がらせる。


「はじめましてにゃ! ミルフィっていうにゃ! 猫耳族で、ここの社員やってるにゃ!」


「しゃ、社員……?」


「うん、いろいろやってるにゃ。受付とか、書類整理とか、おやつの管理とか!」


 たった今目の前で失態をさらしたのに、明るく振舞うミルフィに思わず笑ってしまった。


 あれ? こんなに笑ったのいつぶりだろう?



「それじゃ、お席にご案内するにゃ! あっちのソファ、ふかふかで気持ちいいにゃ。昼寝するには最高にゃ!」


 ミルフィは散らばった書類を器用に腕でかき集めると、軽やかな足取りで店内奥の応接スペースへと案内してくれた。


 店内は少し薄暗い気もするが、掃除が行き届いた清潔な感じで、アンティーク風の家具が並んでいる。外観のくたびれた印象とはまるで違っていた。


「えっと……ここ、何のお店なんですか?  本当に……旅行代理店?」


「そうにゃ、ちゃんとした旅行代理店にゃ。ちょっと特別だけどにゃ」



 ミルフィは、テーブルの上に案内パンフレットらしき小冊子を開き、笑顔で説明を始める。


「ここ、NEXUSゲートツアーズは“異世界旅行専門”の代理店にゃ! いろんな世界に行けるにゃ。火山の国とか、空に浮かぶ島とか、魔法が日常の街とか!」


 予想しなかった説明に言葉が出てこない。


「……異世界?」


「そうにゃ! 冗談じゃないにゃ、本当だにゃ! もちろん最初はみんな信じにゃいけど……でも、ここに来る人って、たいてい“今の世界に疲れた人”なんだにゃ」


 ミルフィは、私の目をまっすぐに見つめて説明を続けている。さっきまでのはしゃいだ様子とは打って変わって、すごく丁寧な説明だ。


「えっと、遥さん……でいいかにゃ? もしかして、今ちょっとつらい時期だったりするにゃ?」



 まさかの図星に、私は思わず目をそらし、ゆっくりうなずいた。


「……はい。いろいろ、あって……ちょっと、疲れちゃったのかも」


「そっか……」


 ミルフィは、ぱちんと手を叩いて笑顔で私の手を取りこう言った。


「なら、ちょうどいいにゃ! そういう人にはぴったりの“体験プラン”があるにゃ!」


 そう言って彼女が取り出したのは、1枚の招待状。


 そこには「NEXUSゲートツアーズ 特別体験プラン ご招待」と書かれていた。


「お試しで、ちょっと異世界に行ってみるのもありにゃ! もちろん、契約も義務もないし、お金もかからないにゃ。何もしなくてもいい場所もあるにゃ」


「……何もしなくても、いい場所……」



 私は招待状を手に取り、少し考える。


 招待状を見つめていると、辛かった日々がフラッシュバックしてくる。


 気付けば視界が急にぼやけ始め、頬に涙が伝っていた。

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