第11話:こうなったら、白黒つけようじゃない

黒の攻防、牛肉メス作戦の深淵


篠原正剛は、書斎の重厚なマホガニーのテーブルに並べられた最高級サーロインを前に、苦虫を噛み潰したような表情を隠せないでいた。一国の政府からの「贈り物」という名の厄介物。廃棄すれば国際問題、国内で捌くにも骨が折れる。何より、この肉を前に「美味しくいただく」などという神経は、彼には欠片も持ち合わせていなかった。


彼の頭脳は、冷徹な「黒字」計算機だ。医師会理事としての権力は、彼に莫大な利権と経済的な「黒字」をもたらしてきた。内藤尊という男は、その完璧な「黒字」構造に不協和音を奏でるノイズであり、愛娘みづきとの結婚など、言語道断の愚行。みづきは、医療界の有力者との政略結婚によって、篠原家の「黒字」を盤石にするための駒でなければならなかったのだ。


「あの男のせいで…! 全く、余計な手間と費用をかけさせられる!」


正剛は、せめてこの牛肉を経済的に利用できないかと算段を始めていた。高級レストランへの卸し? 有力者への贈答品? いずれにせよ、この大量の肉を無駄にするのは、彼の経済観念が許さない。


その時、内線が鳴った。秘書からの、またしても南アフリカ共和国関連の報告だった。


「理事長、南アフリカ共和国大使館より、例の牛肉の件で一つお願いが、と…」


「またか…今度は何だ?」正剛の声には、隠しきれない苛立ちが滲む。


「は…はい。贈呈された牛肉の販売益、あるいはご利用による収益の一部を、『南アフリカにおける医療インフラ整備基金』に寄付していただきたい、と…」


正剛は、耳を疑った。


「……何だと? 寄付? 私が、あの牛肉で得るかもしれん利益を、アフリカの、あの男の息のかかった国の医療支援に寄付しろと…? ふざけるな!」


怒声が書斎に響き、秘書は凍りついたように縮こまる。だが、報告はそれで終わりではなかった。


「そ、それに…つきましては、その基金の運用について透明性を確保するため、日本の医療関係者で構成される委員会を設置し、篠原理事長にもぜひ、その委員長に就任していただきたい、とのことでございます…」


「……委員長、だと?」


怒りを通り越し、正剛は呆然とした。南アフリカ政府は、彼がこの牛肉を私的に利用したり、闇ルートで処理したりすることを牽制するだけでなく、その収益を自分たちの目的に沿って使わせ、あまつさえそのプロセスに彼自身を組み込み、「監視」しようというのだ。


これは、単なる嫌がらせではない。明確な「メス」だった。

彼の経済的な「黒字」への執着、その核心である「儲け」そのものに、南アフリカ共和国は、医療支援という大義名分を掲げて、真っ向から切り込んできた。


「この牛肉は、経済的価値を持つがゆえに、私の支配下にあるはずだった。だが…この『寄付要請』というメスによって、その価値は私にとって『負債』になりかねん…!」


目の前の霜降り肉が、輝きを失い、自分を縛り付ける鉄鎖のように見えてくる。南アフリカ政府の「黒さ」は、物理的な牛肉の量だけではない。その発想の奇抜さ、大胆さにある。日本の医療界の権力者の急所、「金」の動きをコントロールしようというのだ。


「あの連中…! 肌の色は黒いが、考え方はそれ以上に黒いぞ…! 私の経済的な黒字に、まさかこんな形で…!」


正剛の「黒さ」は、日本の医療界という限定的なパイの中で、自己の利益を最大化し、競争相手を排除するための、地道で粘着質、陰険とも言えるものだった。対して、南アフリカ側の「黒さ」は、スケールが違う。善意を外交戦略に転換し、大量の現物資産を送りつけ、その収益の使途にまで介入する。しかもそれを、世界が注目する中で、清廉潔白な「医療支援」という名目で実行するのだ。


経済的な「黒字」を追求する正剛の「黒さ」が、アフリカ大陸規模の、予測不能で豪快な「黒さ」によって、予期せぬ角度から「メス」を入れられた瞬間だった。


「寄付だと…? 委員会だと…? 私が、自分に贈られた肉の収益で、自分を苛立たせる男の恩人の国の、医療支援を『透明性をもって』監督しろと? なんという屈辱…!」


正剛は、もはや笑うしかなかった。

そんな折、新たな火種が投下された。秘書が持ってきたタブレットには、とある医療系ウェブメディアの記事。内藤尊のインタビューだった。


「国境を越えた医療協力の理想と現実」と題された記事の中で、内藤は名指しこそ避けていたが、明らかに今回の牛肉騒動を念頭に置いた発言をしていた。

「…物質的な支援の大きさが、時として受け入れ側の負担となり、本来の目的を見失わせる危険性も孕んでいます。真の支援とは、現地のニーズに寄り添い、持続可能なシステムを共に構築すること。一部の利権やメンツに囚われず、透明性の高いプロセスで…」


正剛は、タブレットをテーブルに叩きつけた。ガラスに亀裂が走る。

「この…! **武藤尊(むとうたける)**めが!」

激昂のあまりか、無意識の侮蔑か、正剛は内藤の名を間違えていた。

「無資格の青二才が、何を偉そうに! 現実も知らんくせに理想論ばかり並べおって! あの男のせいでみづきは惑わされ、私の計画は狂い、今度は国際的な問題にまでしゃしゃり出てくるというのか! 無責任にもほどがある!」


秘書が恐る恐る口を開く。「理事長…落ち着いてください。内藤先生の発言は、あくまで一般論として…」


「黙れ! あの男の言う『透明性』など、所詮は綺麗事だ! この私が、どれだけ日本の医療界の『現実』と戦い、『黒字』を積み上げてきたと思っている! あの牛肉だってそうだ! まるで私が横領でも企んでいるかのような言い草ではないか!」


書斎を獣のようにうろつきながら、正剛は拳を握りしめた。

「もう許せん…! こうなったら、白黒つけようじゃないか! あの小僧にも、あのふざけた南アフリカ政府にも、どちらが本当の『黒』か、どちらが上か、徹底的に!」


激昂の頂点で叫んだ瞬間、ふと、正剛の動きが止まった。窓ガラスに映る自分の顔は怒りに歪んでいるが、その奥に潜む計算高い光は消えていない。彼は、乾いた、しかしどこか愉悦を含んだような笑いを漏らした。


「…フッ。白黒、ねぇ…」


傍にいた秘書が、思わず小さな声で呟いた。あるいは、計算ずくの囁きだったのかもしれない。

「理事長…申し上げにくいのですが…その…白黒と仰いましても…」


正剛は秘書を睨みつけたが、その視線はすぐに宙を彷徨った。そして、ニヤリと口角を上げた。


「ああ、そうだな。どっちも真っ黒なんだがな?(笑)」


自嘲と、ある種の開き直りが混じった、黒い笑みだった。

自分自身の「黒字」への執着と、そのためには手段を選ばない「黒さ」。

南アフリカ政府の、善意を盾にした外交戦略という、スケールの大きな「黒さ」。

そして、内藤尊…彼とて、正剛から見れば、自分の理想のためには周囲を巻き込む「無自覚な黒さ」を持っているのかもしれない。


「面白いじゃないか…」


正剛の目に、再びギラリとした獣の光が宿る。

「どちらも真っ黒だというのなら、より濃く、より深く、より巧妙に『黒く』染め上げた方が勝つ。そういうことだろう?」


目の前の「牛肉問題」が、単なる厄介事ではなく、己の「黒さ」の真価を問われる壮大なゲーム盤に見えてきた。内藤尊の「無責任発言」は、図らずも正剛の闘争心に新たな燃料を投下したのだ。


「いいだろう、受けて立つ。南アフリカの『破天荒黒』にも、あの小僧の『青臭い黒』にも、私の『熟成された黒』がどういうものか、とっくりと教えてやる。まずは、あの『委員会』とやらを、私の色に染め上げることから始めるか…」


正剛は、新たな悪だくみを思いついた子供のような、不気味な笑みを浮かべた。肌の色ではなく、腹の中の「黒さ」こそが勝負を決める。奇しくも「白黒つけよう」という言葉から、「全員真っ黒」という真理(?)に到達した正剛は、この混戦をさらに楽しもうとしていた。


日本の「黒字」権力者と、アフリカの「破天荒黒」外交。そして、そこに絡む若き医師の「理想という名の黒」。

三者三様の「黒」が交錯する奇妙な対決の火蓋は、今、切って落とされた。その切れ味は、医療用のメスよりも、はるかに深く、そして痛みを伴うものとなるだろう。


(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る