ノーライセンス、ヒーラー
志乃原七海
第1話「医者じゃありません!」
ノーライセンス・ヒーラー 第一話(改善版)
真夏の体育館は、熱気が充満し、男たちの荒々しい呼吸と、時折響き渡る獣のような咆哮がこだましていた。スパーリングを終えた内藤尊(ないとうたける)、24歳は、サンドバッグのように打ち据えられた身体を引きずり、壁際にもたれかかった。口の中に、嫌な鉄の味が広がる。また、どこか切れたらしい。
「尊、また派手にいったな。顔、大丈夫か?」
ジムの先輩、佐藤が苦笑しながら、ペットボトルを投げてよこした。
「ウス…毎度のことです」
掠れた声で答えながら、尊は受け取った水をがぶ飲みする。鏡を見るまでもなく、自分の顔がどうなっているか、おおよその想像はついた。眉の上か、頬骨のあたりか。いつものことだ。
父は外科医。幼い頃から、尊は医療ドラマに夢中になり、将来は父のような医者になることを夢見ていた。現役、一浪、二浪と重ね、医学部を目指したが、結果は全て不合格。三度目の不合格通知を見た日、尊は全ての参考書をゴミ捨て場に運び、近所の総合格闘技ジムの門を叩いた。父は何も言わなかった。「やりたいようにすればいい」。その言葉だけが、重く尊の心に残っている。
ジムからの帰り道、尊は慣れた手つきでリュックから小さな救急ポーチを取り出した。中身は、消毒液、ガーゼ、そして縫合針と糸。
父へのコンプレックスか、捨てきれない夢への執着か。尊は医学部受験に失敗した日から、父の書斎の専門書を盗み読み、その知識を確かめるように、夜な夜なスーパーで買ってきた鳥や魚の死骸を縫い合わせていた。血と内臓を見ても心は凪いでおり、人体の構造が、まるで設計図のように直感的に理解できた。それは、もはや「技術」ではなく、彼に備わった「天性」あるいは「呪い」のようなものだった。「さすが医者の息子だな」とジムの仲間には言われるが、尊自身にそんな自覚はない。ただ、痛いのは嫌だし、傷跡が残るのもみっともない。それだけだ。今日もバスに乗る前に、手早く縫ってしまおう。
バス停には、練習終わりの時間帯と帰宅ラッシュが重なり、長蛇の列ができていた。まるで満員電車のように、バスはぎゅうぎゅう詰めだ。尊は小さく溜息をつきながら、奥へと押し込まれるように乗り込んだ。吊革に掴まり、イヤホンを耳に押し込む。流れてくる音楽が、身体の軋みと疲労感を、わずかに和らげてくれる。
窓の外を流れる景色が、夕焼けのオレンジ色に染まり始めた頃だった。
ドォンッ!
突如、鼓膜を突き破るような轟音と、身体が宙に浮くような強烈な衝撃。何が起きたのか理解する間もなく、尊は他の乗客たちと共にバスの床に叩きつけられた。悲鳴、怒号、ガラスの割れる音。世界がひっくり返ったような感覚。
「……ぐっ……!」
咄嗟に頭を庇ったが、全身を強打し、息が詰まる。煙と埃が舞い、むせ返るような鉄錆の臭いが鼻をついた。バスが、横転している。
「誰か!誰か助けて!」
「痛い!足が……!」
「こっちだ!こっちにも倒れてる人が!」
阿鼻叫喚の中、尊は痛む身体を叱咤し、なんとか体勢を立て直そうと試みた。幸い、大きな怪我はなさそうだ。周囲を見渡すと、座席や手すりに身体を打ち付け、呻いている人々が見える。血を流している者もいる。
「大丈夫ですか!しっかり!」
尊は近くで倒れている老婆に声をかけ、肩を貸して比較的安全な場所へ移動させる。幸い、老婆は意識はしっかりしているようだ。
その時、切羽詰まった声が車内に響いた。
「どなたか……!どなたかお医者様はいらっしゃいませんか!? 出血が酷い方が!」
「こっちにも!意識が、意識が朦朧としてる人がいます!」
一瞬の静寂。誰もが顔を見合わせる。しかし、誰も名乗り出る者はいない。皆、恐怖と混乱で固まっている。
尊は唇を噛んだ。目の前で苦しむ人々の姿が、三度目の不合格通知を見たあの日の光景と重なる。全てに絶望し、参考書を捨てに行った帰り道、彼は目の前で起きた事故で、助けを求める人を前に何もできず立ち尽くした。知識はあっても、資格がない。手を出せば、何が起きるか分からない。その時の無力感が、鉛のように今も胸に沈んでいる。
「あの時とは違う……!」
逡巡は一瞬だった。
「医者じゃありません!」
尊は声を張り上げた。喧騒の中でも通る、鍛えられた声。
「医者じゃありませんが、応急処置なら…できます!」
尊は言葉を区切り、周囲を見渡した。一斉に注がれる視線。疑い、戸惑い、そして微かな期待。様々な感情が入り混じった眼差しが、まるで彼の決断を試すように注がれている。その視線の中に、鋭く光る眼差しがあった。老婆を介抱していた、黒いスーツ姿の男だ。男は冷静に車内の状況を分析し、誰が重傷で、誰が軽傷か、救助の優先順位を無意識に組み立てていた。そこに現れたのが、尊という「規格外の変数」。男の眉がピクリと動く。
「あなた、医者じゃないんでしょ!? 素人が何するの!」
若い女性の甲高い声が、尊の言葉を遮った。
「そうよ! 下手に触って悪化したらどうするのよ!」
非難の声が上がる。だが、尊はそれを振り払うように、手近な場所で血を流して倒れている若い女性のもとへ駆け寄った。額がパックリと割れ、鮮血が後から後から溢れ出ている。
「誰か、綺麗なハンカチかタオルを! ライトを持っている人は照らしてください!」
指示を飛ばしながら、尊はリュックから救急ポーチを取り出す。消毒液、滅菌ガーゼ、そして縫合針と糸。
スパーリングで意識が飛びかける寸前の、あの極限の集中力が尊を支配する。周囲の悲鳴や非難が遠のき、目の前の傷だけが世界になった。横転し、傾いたバスの床。常人なら体勢を維持することすら困難な状況で、尊の体幹は微動だにしなかった。格闘技で鍛え上げたバランス感覚が、その指先を安定させていた。
「少し染みますよ、我慢してください」
女性に声をかけながら、尊は慣れた手つきで傷口を消毒し、針に糸を通す。素早いながらも正確な運針。傷口が少しずつ閉じていく様は、素人目にも見事としか言いようがなかった。非難していた人々も、その手際の良さに言葉を失い、固唾を飲んで見守るしかできない。
その一部始終を、スーツ姿の男は猛禽のような目で静かに見つめていた。その瞳は、尊の「技術」そのものよりも、混乱の中で行動を起こせる「精神性」を分析しているようだった。
数分後、額の傷は綺麗に縫合され、出血は完全に止まっていた。
「よし……これで大丈夫なはずだ」
尊が安堵の息を吐いた、その時だった。
「助けてくれ!こっちの人は、意識が完全にない!」
奥の方から、悲鳴にも似た切迫した声が響いた。尊が目を向けると、バスの座席の間に挟まるように倒れた中年男性の周囲に、数人が群がっていた。男性の腹部は引き裂かれ、夥しい量の血がアスファルトに広がり、みるみるうちに大きな血溜まりを作っていく。顔色は蒼白を通り越し、もはや土気色だ。
「腹腔内出血だ…!このままだと、出血性ショックで死ぬ…!」
誰かの呟きが、絶望感を車内に広げる。救急車のサイレンはまだ遠い。このままでは、間に合わない。
「なんてことを…もう助からないのか…」
尊の脳裏に、医学書の図解が焼き付くように浮かんだ。腹部大動脈。骨盤。人体の構造が、彼には倒すべき対戦相手の姿のように見えていた。相手の次の動きを読むように、彼は損傷箇所と、まだ生きている血管のルートを予測する。
「狂ってると思われるかもしれんが、やるしかない…!」
尊は叫ぶと、近くにいたサラリーマンのネクタイを無言で引きちぎり、別の乗客が落とした革ベルトを拾い上げた。さらに、折れ曲がった座席の金属パイプの一部を力ずくで引き剥がす。
「何をする気だ!?」「やめろ、殺人行為だぞ!」
周囲の制止を意に介さず、尊は男性の身体に跨った。
「この男の肩をしっかり押さえてろ!」
尊は叫びながら、格闘家として培った触覚で、皮膚の上から的確に大動脈の位置を探り当てる。そして、ベルトとネクタイで輪を作り、金属パイプをテコのように差し込んだ。
「うおおおおっ!」
雄叫びと共に、尊はテコを捻り上げた。即席の圧迫止血帯が男性の下腹部を締め上げる。
「大動脈を、背骨に押し付けて血流を遮断する!足への血流は止まるが、今は腹からの出血を止めるのが先だ!」
それは医学書には載っているが、素人が現場で実行するにはあまりに無謀で、正確な知識と度胸、そして腕力がなければ不可能な荒療治だった。
スーツ姿の男は、その光景をスマートフォンのカメラに収めていた。驚くべきは、尊が「ありあわせの物」で、即座に最適な医療器具を作り上げ、実行したことだ。それは単なる知識の応用ではない。極限状況下における、創造的な問題解決能力。男の瞳には、恐怖も嫌悪もなく、ただ純粋な「観察」と「分析」の色が宿っていた。
どれほどの時間が経っただろうか。けたたましいサイレンの音が、急速にバスの横転現場へと近づいてきた。救急車の赤色灯が、車内に鮮やかに差し込む。
「救急隊だ!助かった!」
乗客から安堵の声が漏れる中、救急隊員たちがバスの内部へと駆け込んできた。彼らは一瞬、目の前の光景に言葉を失う。血まみれの若者が、自作の器具で男性に馬乗りになっているという、信じられない状況。
「何をしているんですか!離れなさい!」
隊員の一人が尊に駆け寄ろうとしたその時、別の隊員が叫んだ。
「待て!ショック状態だが…バイタルがある!出血も最小限に抑えられてる…まさか…」
「腹部大動脈を圧迫止血してあります…なんとか、繋ぎました…」
尊は力なくそう呟くと、ぐらりとよろめき、その場に座り込んだ。彼自身の身体も、精神も、限界を迎えていた。
救急隊員たちは迅速に状況を把握し、負傷者たちを搬送していく。重傷だった男性も、尊の的確すぎる応急処置に驚きつつ、ストレッチャーに乗せられた。
「あんた、すごいよ!本当に助かった!」
何人かの乗客が、畏怖と感謝の入り混じった目で尊に声をかける。
尊は、その場に座り込んだまま、遠ざかるサイレンの音を聞いていた。全身の疲労が、今になって一気に押し寄せてくる。
「内藤尊、さん、ですね?」
低い声が頭上から降ってきた。顔を上げると、先ほどまで尊を観察していたスーツ姿の男が、尊の目の前に立っていた。男は、尊の顔をじっと見つめ、ゆっくりと一枚の名刺を差し出した。
「私は、とある組織の人間です。あなたの、その『技術』と、何よりその『判断力』に、非常に興味があります」
名刺には、一般的な企業名とは異なる、シンプルなロゴマークだけが記されていた。男の目は、感謝の言葉の代わりに、尊の存在が、これから大きな波紋を呼ぶことを告げていた。
尊は名刺を受け取った。その紙の冷たさが、彼の胸に募る不安を一層強める。自分は、命を救った。だが、それは、新たな「何か」の始まりを意味するのだろうか。
遠く、救急車のサイレンが完全に聞こえなくなった。代わりに、パトカーの音が近づいてくる。その音が、彼の行為が法の下でどう裁かれるのか、重い現実を予感させた。
(続く)
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