アポクリファ、その種の傾向と対策【自由と孤独のサンクチュアリ】
七海ポルカ
第1話
階下から弦楽四重奏が聞こえて来る。
優雅な旋律に、時の節目に鳴り始める鐘の音が重なった。
ただ今日は、その鐘の音をきっかけに忙しなく動き出す、学生たちの姿はない。
美しい鐘はただ、伝統ある構内に余韻を残すだけだ。
「学生は大学の花とはいえ……こういうのもいいものだね。まるで自分が真の支配者になったような気分に浸れる」
「気分になるだけだろう。悪いが君は全然真の支配者じゃない」
「勿論そうだ。分かっているとも。実際学生が全員いなくなったら一番困るのは私たちだからね。崇めたてられる人間というものは、崇めたててくれる人間あっての存在だ」
「まぁなんだか清々しいという部分には頷いてあげるよ。この二週間だけは家に帰らず大学にずっといたい」
「新婚の言うセリフとも思えんな。奥方に言いつけてもいいんだぞ」
「そういう君は最近論文に全然身が入ってないけれど」
円卓になったテーブルの上には輝く食器に食事、ワイン、瑞々しい果物、飾られた花が所狭しと飾られていた。
すかさず葡萄の実が一つ向かいから飛んで来る。
「最近は大学教授というより猛獣使いのような仕事ばかりやらされて疲れるよ。
君の所は今年はいい人材が入ったと聞いてるからこんな気持ちにはなったことはないんだろうけどね」
「いや。最近はどこも似た寄ったりだ。輝く才能など不意に現れる流星のようなもの。
出現を予測することは出来ないさ。我々の使命はその流星を見逃さないよう、何も無い夜闇にも常に希望を持って目を凝らしていることだよ」
「そういえばワーネルは新しい助教授を入れたと聞いたが」
「長く務めた助教授が大学を去っただけですよ。結婚してベルゴナに移住するんだとか。教職を捨て広大なワイン農場で執筆三昧」
円卓に座った教授たちが感嘆のため息をついたあと、笑いながら拍手を巻き起こす。
「いいね」
「ある意味そういう生き方が一番幸せかもしれんな。羨ましい」
「後任は他所から助教授を招いたんだって? ここのやり方を知らないと苦労するんじゃないか?」
「苦労をしたがって私の所に来たから心配ありませんよ。野心もあるし、上手くやります。
私もそろそろ政治家のような役回りは誰かに任せたいと思っていた。利害の一致ですね」
「後任人事の話はパーシーの方が盛り上がりに期待出来るぞ。
ギデオンカレッジの特別研究員の研究室を改装していると秘書が言っていた。
君の眼鏡に適う人材なんて一生出て来ないんじゃないかと思っていたけれど。
地獄の番人のように厳しい男だからな君は。
ようやくファビアン・イエーツにカレッジの未来を任せる決断を?」
「いや。イエーツはエンドールカレッジに異動する」
「そうなのか? てっきり君は……」
「優秀な男だし、私の側で十年も勤勉に働いてくれたことは感謝しているが、
これからは別の道を行った方がお互いにとっていいと思ってね。彼もずっと私と同じカレッジでは息苦しいだろう。彼は一生を補佐で終えるような器ではない。楽しくやるさ」
「ではギデオンカレッジのオフィスには誰を入れる?」
「君の見立てをまず聞いてみようか」
「そうだな……。サルヴァンかブルームだろうな。
法学部は優秀な学生は多いが、みんな賢く揃ってある意味凡庸だ。
その点サルヴァンは法曹に関わる者としては他の人間に無いユーモアがあるし、ブルームは入学当初から非常に賢い学生だった。あの二人なら君とも上手くやっていけると思うが」
それを聞きながら、パーシー・エバンズはワインを新しいグラスにゆっくりと注いだ。
仲間の教授たちがどよめく。
「驚いた。新人を入れるつもりだぞ」
「噂を聞いたことがある?」
「いや。全く無い。さすが我がダルムシュタット国立大の法曹の寵児。君の所からは一つも噂話が零れんな。感心する」
友人に乾杯するように掲げてから、ワインを呷った。
パーシーはそれに対してワインを軽く掲げるようにして応えたが、飲まずに手の中で揺らし、蠟燭の火に照らし出される美しい色を眺めている。
「確かに社交性に欠けてるのは欠点と言える。
だが優秀さで言ったらこの十年で随一だと思う」
「どこの誰だ。この前の夜会ではそんな話、君から聞かなかったぞ」
「ブルームが短期でフェンブール大に客員教授で行ってる。その間に三人助手を増やしたんだが、間違って違う裁判記録の整理を任せてしまった。レオナルド、君の所にわざわざ回そうとしてたやつだよ。手間が省けた」
「私の所に回す裁判記録ということは、もしかして【ジェネス・ケントリア事件】か?」
「うん。犯人のジェネスが仲間に送った指示書を訳して書き写さなければならなかったんだが。僕が二日間出張に行ってる間に全て訳してまとめて来た」
「ジェネスの指示書なら『数学者の言語』ゾナフォンで書かれているはず。
自らの優秀さを誇示したがったあの殺人者は記録も多い。私の所では三人の助教授で一気にやらせるつもりだった。新人が二日で全部訳するとは。
――一体何者だ? 何故解読出来た?」
パーシー・エバンズは小さな紙切れに何かを短く書くと、隣の教授に渡した。
それが次々と受け渡されて、対面に座る数学部教授レオナルド・アーヴィンの許へと届く。
紙に書かれた名を見て、レオナルドは青い瞳を輝かせた。
「ルディ・パーシヴァルの息子?」
十の席が用意された円卓に座る、各分野の重鎮たちが少しどよめいた。
「本当かね」
「本人から聞いたわけでは無いけれど、あんまりにも優秀なので調べさせたよ。
案の定【ゾディアックユニオン】絡みだったから、ほとんどパーソナルな部分は探れなかったけど。逆に入学記録の方に父親の名前が載ってた」
「ああ……そういえば遠い記憶だが一人息子がいた気がする。出産祝いを贈ったよ。
痛ましい事故だったな。両親どちらも亡くなったんだろう? そのあと親族に引き取られたんだろうか?」
「いや。パーシヴァルは天涯孤独な男だった。それでいて妙に暗い所のない……面白い男だったが。両親の死後は研究所の同僚の養子になったらしい」
「そうなのか。だがそれなら納得だ。パーシヴァルの息子なら『
あれは異質な天才だったから」
「だが、君の所にいるということは、父親と同じ道には進まなかったんだな。母親とも違う」
「子供の頃から苦労をしていれば自ずと求めるものは異なって来るさ。
それに異質な才能というのは基本的には一代限りだ。
才能があるのに偉大な父親の影に一生悩まされる息子もいる。
パーシヴァルは根っからの数学者だった。法曹界などとは無縁な男だよ。
あの系譜を我々が使えるというのは非常に面白い」
「そうか。君がそんなに見込むほどか」
「そこまでの才が何故今まで噂一つなかったのだろう?」
「賢い者ほど力を振りかざさず慎重に生きるものだ。両親の死は生涯の傷だろうし、メディアに追い回されたくなかったんだろう」
「ギデオンカレッジに研究室を与えるというのは、ノグラント連邦共和国の法曹界の未来に居場所を与えるということだが……その覚悟は備わっているのか?」
「そこなんだ。優秀さに疑いようはないけれど、時々心が移ろうことがあるようで」
「ほう。彼の心を彷徨わせてるのは何かな?
過去の傷か、年頃の恋情か。
早熟の天才ならではの、陳腐で高尚な悩みか?」
パーシー・エバンズはグラスを手に取った。
「それがあまり分からないんだよ。だから少しばかり探ってみようかなと思う」
「魔法使いはとかく弟子に試練を与えたがる」
円卓の教授たちは楽しそうに笑った。
「この男が魔法使いなどと可愛げのあるものかね、どちらかというと地獄の門番だろう」
「人聞きが悪いことを言わないでくれるかな」
「いや、お前が後進を育てようという気になったことが奇跡だ。お前にそんな感受性があったとは」
「確かに僕に立派な感受性は無いな。でもだからこそ判事なんて職が務まるのさ。
『我が欠けたる心は、他人の刃で掠めることすら出来ない。
そこにいない者になるべき、その理由』だよ」
ノグラント連邦共和国の偉大な詩人が残した格言を引用して、パーシーは微笑む。
「なるほど。それではギデオンカレッジの魔法使いの弟子に期待しようか。我々も学部は違うとはいえ、優秀な人材は未来におけるダルムシュタット国立大の顔になる。注目しているよ」
「そういえばまだ名前を聞いていなかった」
「シザ・ファルネジアだ」
パーシーが一口ワインを飲んで、グラスをテーブルに戻した。
「――彼を見ていると父親というより母親の方を思い出す。
美しいが、彼女もとても優秀な人だった。
才に容姿に人柄。人を惹き付ける圧倒的なものを持った人だったが。
彼女の血かな。まだ十代だが、彼には不思議な存在感がある」
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