第19話 ミス・フギダルの荒地(迷いの荒地)

水の音が消えていた。


それは唐突で、あまりに静かな消え方だった。

ずっと頼りにしてきた小川の流れが途絶えた。

川底の石を撫でていたあの涼やかな音が消えた。


小川は、確かにここを流れていた。

セーリャの清流。この川の流れと共に歩いてきた。

それを辿っていれば、きっと...

だが今、何もかもが不確かだった。


かろうじて濡れた土の匂いが、そこに水があったことを知らせてくれる。

伏流水...地下に潜ったのだろうか。

雨の多い季節には再び川となって現れるかもしれない。

けれど、今はただの道もない、ぼんやりとした谷間が続くだけだった。


湿った霧が、足元から這い上がるように立ち込めていた。

風はなく、空もない。木々はねじれ、道は同じ形をした岩の間をぐるぐると巡っている。

どちらへ向かっているのか――わからなかった。


「おかしい...」

つぶやいた声も、まるで布に包まれたように耳に届かない。


耳を澄ませても何も聞こえない。風は無く草も揺れない。

音のない世界。頼るべきものを見失って、シグルドは足を止めた。


振り返って見た。歩いてきたはずの道には水の形跡などどこにも無かった。

濡れた土も無ければ、踏みしめた草の跡も無い。

あるのは、乾ききった岩と、くすんだ苔と、ぽつぽつと崩れかけた石屑だけだった。


いつの間にか、谷は姿を変えていた。

草は消え、代わりに現れたのは、鋭く風化した岩と、乾いた土ばかり。

あたりには霧が立ちこめ、視界は遠くまで届かない。

太陽の方角すら判らない。

ただ岩の斜面がどこまでも続いていた。


足を進めるのは、意志ではなかった。

それはもう、「進まねばならない」というような確かな思いではなく、

ただ「立ち止まれない」だけの頼りない惰性だった。


霧の中で、石がかちりと転がる音がした。振り返ると...誰かが立っている。


「誰だ」


声に返事はなかった。

けれど、確かに人の形をしていた。

だがそれは、霧が一時的に寄り集まって形を作っただけのようでもあった。

目も、口も、輪郭すらぼやけていて、見つめているはずなのに目を逸らされているような、そんな気味の悪さがあった。


もう一つ、影が現れた。

その次には、また別の。


気がつけば、あたりには無数の人影がいた。

どれもおぼろで、霧が記憶をなぞるように揺らめきながら形を造る。


「どこへ行こうとしている?」

ひとつが囁いた。

その声は耳ではなく、頭の内側に届いたようだった。


「ここに、何を探しに来た?」

「本当は当てなど無いのに罪の意識を誤魔化すために来たんだろう?」


声が重なるたびに足元の岩が揺れた。

心がひりつく。胸の奥、触れてほしくない場所をざらざらと撫でられているような感覚。


「やめろ」


かすれた声で呟いた。

だが、影たちはやめなかった。


ひときわ濃い霧の中から、あの声が聞こえた。

「父さん...」


ーーーゴドウィンーーー

霧の奥、岩の影。そこに、小さな子どもが立っていた。

我が息子...

古びたチュニック。土で汚れた小さな手。あの笑顔...


「見て、また見つけたんだ。氷の欠片みたいな、きれいな石」

「やめてくれ...」


シグルドの声は、石に弾かれるように虚しく響いた。

目の前の子は、幻だ。わかっている。

なのに、足が動いていた。岩を踏み越え、腕を伸ばし...


そのとき、背後で微かに笑う声がした。

振り向けば、妻...フリーダの影が見えた。

炎に包まれる前の顔。けれど、瞳にはどこか、冷たい色があった。


「なぜ、間に合わなかったの?」

「すまない...」


岩が崩れた。

知らず知らずのうちに、崖の縁に立っていたのだ。

足元が割れ身体が傾く。地面が引き剥がされていく。


足は宙を踏んでいた。

一瞬、体が浮く。


そのとき、遠く白い影がふわりと霧に揺れた。

それは、名を知らぬ少女。

リミールの泉のほとり...夢の中で見た、あの柔らかな気配...


視界が引き裂かれるように広がる。

落下の感覚...


そして止まった。

咄嗟に岩の縁を掴んだ。手の皮が裂ける感触が走る。

唇を噛みしめ、腕を振り絞って這い上がる。

息を吐いた。背に冷や汗が滲んでいた。

地面に伏した。ゴツゴツした冷たい岩。血の味が口に広がっていた。


影たちはいなかった。声も、霧も、少しずつ薄れていく。

そこにはただ、静かな空と、しわだらけの岩壁が続いていた。


起き上がる。

どこへ向かえば良いかは、わからない。

けれど、立ち上がる以外に道はなかった。


俺は一歩、また一歩と、崩れた山肌をよじ登る。

岩を握る手の感触だけが、この世界に繋がる唯一の証だ。



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週1話くらいのペースで続きを上げていく予定です

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