第15話 水妖の娘
「誰だ……っ!」
俺の叫びに、少女は返さない。
ただまっすぐ、川を隔てたこちらを見ていた。
その瞳が見つめるものは、俺ではない。
魔獣だった。
少女は静かに、片手を差し出した。
その瞬間、水面が震え、水が... 逆巻く。
少女が片手を差し出した瞬間、水面に走った波紋が、まるで生き物のように川を遡った。
それはただの水の揺れではなかった。
意思を持つ流れだった。
川全体が、彼女の呼吸と同じリズムで波打っているかのようだった。
魔獣が牙をむき、俺と少女の間に立ちはだかる。
川の浅瀬に巨体をずしんと落とし、水飛沫が高く舞った。
だが、少女は一歩も引かない。
風に乗って、彼女の髪が水滴をまき散らしながらたなびいた。
その姿は、戦士でも、魔法使いでもなかった。
ただ、水そのもののように自由で清らかだった。
彼女がもう片方の手をゆるやかに持ち上げる。
すると、魔獣の動きがぴたりと止まった。
「?...」
俺は半ば座り込んだまま、息を殺す。
魔獣の目が、少女を見た。
いや、見上げた。
その黒く粘ついた体が、水に漂うように、徐々に力を失っていく。
まるで、母に叱られた子供のように。
巨大な頭が傾き、細かくて鋭い歯列を備えた口が、音もなく閉じられていった。
水面が揺らめき、魔獣の身体が溶けるように透明になっていく。
それは怒りや飢えの色を捨て、ただの水へと還っていった。
少女は微かにまぶたを伏せ、そっと手を下ろした。
彼女の足元から、小さな流れが生まれ、魔獣の名残をさらって川下へと流していく。
俺はその場に倒れたまま、胸の奥に渦巻いていた恐怖が、音も無く消えていくのを感じていた。
目の前には、静かに少女が立っている。
その肌は月光を浴びた水面のように輝き、滴る髪は薄緑の水草のよう。
まとっている衣は、霧か、水の膜か。
形あるようで、触れればすぐに崩れそうな儚さだった。
彼女は無言のまま俺を見た。
その瞳に宿るものは、悲しみでも、怒りでも、喜びでもなかった。
ただの静けさ。
深い湖の底のように、永く揺らがない静けさだった。
「きみは...水の...精霊?」
俺がそう言ったとき、少女は小さく笑った。
その笑みは、言葉よりも深く、確かなものだった。
まるでこうなることが、ずっと前から決まっていたかのように。
彼女が踵を返し川を渡っていく。
足元の水が彼女に応じて舞い上がり、霧のような粒子となって彼女の周囲を漂った。
そして、彼女の姿は水の流れの中へと消えていった。
残されたのは、穏やかな流れと川面にきらめく光の粒だけ。
俺はしばらく立ち上がれずにいた。
あの魔獣の恐怖よりも、この胸に残る想いが、言葉にならない余韻となって残っていた。
「ありがとう...」
声は届いただろうか。
答えはなかったが、
川の水音が、どこか嬉しそうに笑った気がした。
水の精霊に助けられた後、その日は痛む体を休め野宿し、
また旅の日々が続いた。
異世界は疲労感が著しい。
森の奥深く...
小川のせせらぎと鳥のさえずりだけが響く静かな昼下がり。
俺は腰を下ろし、麻袋から干しイチヂクを取り出してゆっくり口に含んだ。
淡い光に照らされて、彼女はそこにいた。
水面からすうっと立ち上がるように少女は姿を現した。
その髪は濡れて翠玉のように光っている。
肌は透けるように白く、瞳は湖の底を思わせる深い青。
森の風景に溶け込むようにして現れる彼女は、いつも突然で、そして不思議と穏やかだった。
「また、か...」
森を進む日々、彼女が現れたのはもう何度目だろうか。
「君、名前は...あるの?」
「セーリャ...」
「セーリャ...祝福か。良い名前だ」
俺は木の枝をナイフで削る作業を再開した。
旅の道すがら、こんな小さな手仕事で心を落ち着けるのが癖になっていた。
12の時から職人だった。使わないと手がウズウズする。
少女は彼の横に腰を下ろし、じっとその動きを見つめた。
「ねえ、それ、何を作っているの?」
「ただの串だよ。魚でも焼こうと思ってな。食ってくか?」
彼女は一瞬驚いたような顔をし、それから微笑んだ。
あ、そうだ!
「魚は君の仲間か?焼いて食ったりしたら駄目か?」
「私も魚は食べるよ。人の子も陸の生き物を食べるんじゃないの?」
「あぁ...そうか。そうだよな」
我ながら、今の俺は間の抜けた顔をしているなと分かった。
串に刺した小魚を焚き火で炙りながら、俺はふと少女に目を向けた。
彼女はじっと焚き火を見つめていた。火の揺らめきが、その頬に不思議な影を落としている。
「怖くないのか? 火は、君たち水の民にとっては...あまり馴染まないものだろう?」
「うん...怖い、少しだけ。でも、あなたがそばにいると...そんなに怖くない」
そう呟くと、少女はそっと手を差し出し、火の熱を指先で感じるようにかざした。
その仕草が妙にいじらしくて、俺は目を細めた。
「君は変わってるな...」
「よく言われる。でも、あなたもね。私みたいな存在と、こうして一緒に魚を焼こうなんて思う人、きっといないもの」
シグルドは少しだけ笑い、そして焚き火を見つめた。
焙られた魚の皮がぱちんと弾ける音がした。
彼女は魚の串を受け取ると、恐る恐る口に運び、そしてぱっと笑顔になった。
「熱い...けれど、おいしい!」
「だろ?」
どこか無邪気なその笑顔に、胸の奥がかすかに疼いた。
+++++++++++++++
週1話くらいのペースで続きを上げていく予定です
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます